赤壁の戦いで孫権に勝利に導いた周瑜ですが、

 

江陵攻略戦の最中に受けた矢傷がもとで、

「天下二分の計」の実行に移せずに、失意の中で亡くなってしまいます。

 

 

そんな周瑜には周循・周胤・周妃といった子供達がいたのですが、

残された子供達がどういう一生を過ごしていったのか・・・

 

そのあたりをここでは見ていこうと思います。

周瑜が描いた益州攻略からの「天下二分の計」

周循・周胤・周妃

周循には、弟の周胤・妹の周妃がいたわけですが、

周瑜亡き後もその子供達は、孫権によって大事に扱われていきます。

 

兄の周循は、孫権の娘であった孫魯班を妻として与えられ、

弟の周胤もまた、孫権の一族の女性を娶っています。

 

また二人の妹である周妃(周姫)は、孫権の皇太子であった孫登に嫁いでいます。

 

 

ただ赤壁の勝利という大きな手柄を立てた周瑜の子供達だからという理由だけでなく、

 

孫家よりも名家であった周瑜の一族との関係を深いものにしたかったという、

単純な孫権の思惑があったのも理由だとは思いますけどね。

 

 

孫家は極端に言ってしまえば、どこの馬の骨ともわからないレベルの家柄なので・・・

孫魯育(実妹)を死に追いやり、悪名を後世に残した孫魯班

周循(長男)の生涯

そんな孫権の期待を受けていた周瑜の子供達ですが、

周循は若くしてあっさりと病死・・・

 

 

周循は周瑜の風貌を兼ね備えていたようで、

そういったところからも将来が期待されていた人物でした。

 

にもかかわらず、父親同様に薄命だったのです。

周胤(次男)の生涯

一方の周循の弟だった周胤はというと、

興業校尉に任じられ、孫一族の女性を娶っています。

 

その一点を見るだけでも、

兄の周循と同様に孫権からも期待されていたことが分かるというものです。

 

 

何よりもまだまだ若造の部類だった周胤でしたが、千人の兵が預けられたのです。

 

そればかりか蜀との国境も近く、

重要拠点であった荊州の公安の守りを任されていますね。

 

 

 

「公安」といえば、かつて関羽を裏切った傅士仁が守っていた城で、

関羽死亡のきっかけを作った拠点でもあります。

 

 

もし公安が簡単に落ちていなければ、麋芳は堅固に江陵城を守っていた可能性が高く、

例え最終的に荊州を奪われいたとしてももっと別の形になっていたことでしょう。

 

そんな重要な所の守りを孫権から任されたのですから、

孫権が高い期待をしていたことだけは間違いないと思いますね。

 

 

それからしばらく時が流れ、孫権が呉を建国した際には、

周胤は都郷侯に封じられています。

 

 

しかし周胤の全盛期はここで終了してしまいます。

 

周胤が罪を犯してしまったことで、廬陵郡へと流刑に処され、

その後に中央へと復帰する事もなく、そこで生涯に幕を下ろしています。

 

 

ただ諸葛瑾・歩騭らが周胤の罪を許してくれるように孫権説得に成功するも、

行き違いで亡くなってしまったという話も残っています。

 

まぁどのみち周瑜や周循同様に、薄命であったことだけは間違いないですね。

周妃の生涯

最後に周妃(周姫)ですが、孫権の皇太子であった孫登に嫁いでいます。

ただ結論から言うと、周妃も薄命で、あっさりと亡くなってしまったようです。

 

そう推測できる理由としては、

「芮玄殿は父である芮祉・兄である芮良と並び、

徳義・文武に優れ、三代にわたって名声が高い人物で、

 

そのことから芮玄の娘(芮妃)を孫登様の嫁にすることが最適であろう。」

といった声が多数あがり、

 

それが大きなきっかけとなった形で、

孫権は孫登の妻に芮玄の娘を選んだといった記録が残っているからです。

 

 

ただあまりに周妃の死が早すぎた事もあいまって、

彼女の記録はほぼ残っていないのも現状ではあるんですが・・・