「江東の二喬」と言えば、

姉の大喬・妹の小喬のことであり、

 

「絶世の美女」であったことが正史にも記録が残っているほどの女性でした。

 

「美女であった」と言われる人物は沢山いますが、

きちんと正史にもそのことが書かれている女性は多くありません。

 

 

ちなみに趙雲との縁談を持ち掛けられた樊氏も大喬・小喬と同様に、

美女であったことが正史にも残っている女性の一人ですね。

正史にも記載が残る美貌の持ち主(美女)、樊氏(はんし)

正史に描かれている大喬・小喬の子供達

大喬は孫策と結婚しますが、

その約1年後には孫策は亡くなっており、

 

「二人の間に子供はいなかった」

と一般的にはされています。

 

 

 

一方の小喬はというと周瑜と結婚し、

孫策と違って長生きとはいえないけれども、

 

周瑜は35歳まで生きているので、約11年間にわたって夫婦生活を送っていました。

 

 

ちなみに「周瑜と小喬の間に子供がいたかどうか?」となると、

 

正史に記載されていない為に、

「子供を授かっていたかもしれないし、

授かってなかったかもしれない。」

が答えになりますね。

 

結局のところ、小喬の方も子供がいたかどうかは不明なんです。

 

 

まぁ11年間にわたって夫婦生活を送っているので、

普通に考えたら子供がいたとしても全然不思議ではないかなと思いますが・・・

 

ただ記録が残っていない以上、あくまで不明の域を出ていないのが現状です。

孫策・周瑜に愛された江東の二喬(大喬・小喬)

大喬に子供がいた可能性を探る

「孫策と大喬の間に子供がいたのかどうか」

具体的に前後の年代から推察していきたいと思います。

 

袁術が亡くなったのが199年の6月で、

袁術の臣下であった劉勲が、

勢力拡大してきたのがそれ以降というのを考えると、

 

まず孫策と大喬が結ばれたのは、

どんなに早くとも199年7月以降で、正確な月日は不明ということになります。

 

 

次に孫策が許貢の残党らに襲われて最終的に亡くなってしまうのが、

200年5月5日になります。

 

それらから孫策と小喬が夫婦になっていた期間を計算すると、

7月1日に結婚していたと仮定して約11か月・・・

 

実際に二人が結ばれたのが8月以降の可能性もあるんで、

その場合は最大でも約10か月ということになりますね。

 

 

そして生物学的に妊娠してから子供が生まれるまで、

大体10か月かかるのが一般的です。

 

 

そう考えると、二人の間に新たな命が芽生えていたとして、

 

孫策が亡くなった時に生まれたばかりか、

孫策の生存時にはまだ生まれていなかった可能性は普通にありますね。

 

 

生物学的に可能性がある最大期間で考えると、

 

200年4月初旬

〜201年2月の間に生まれた子がもしいれば、

 

孫策と大喬の間に子供が生まれていた可能性は、

十分にあることが言えることになります。

孫策の子供達の痕跡から探る

次に孫策の子供達ですが、息子は孫紹そんしょうのみでした。

他には三人の娘が誕生しています。

 

三人の娘たちは少し後の時代になり、

朱紀(朱治の子)・顧邵(顧雍の子)・陸遜の元に嫁いでいますが、

 

三人の娘が結婚した時期などを考えた際、時間的にも孫策と大喬の間に生まれた子としては、

不自然に感じる点も多い事から可能性は低そうです。

 

 

「世の中に絶対」という事はないので、

少なからず可能性はあるとは思いますが、

 

それでも孫策と大喬が夫婦であった時期を考えると、

「かなり厳しい・・・」というのが正直な所です。

 

 

 

そして残された孫策の一人息子である孫紹はどうだったのしょうか?

 

 

孫策が亡くなる間際に、

重臣の張昭に対して孫権の補佐を任せており、

 

「もし孫権がどうしようもない奴だったら、

代わりに貴方が私の軍を率いてもよい!」

とまで言っていることが正史にも残されています。

 

劉備が亡くなる間際に、

諸葛亮に劉禅を任せた時にかけた言葉とまさに瓜二つですね。

 

 

孫策と大喬の間に子供が生まれていたとしても、

 

まだ生後1ヵ月程度の赤ん坊であり、

さすがに幼いにも限界がありすぎた気がするのが理由でしょう。

 

 

またこれは可能性の最大で考えられる期間であって、

 

実際孫策が死亡した時には、

生まれていなかった可能性を考えるのが自然だと思います。

 

 

そう考えると、孫策の息子であった孫紹が跡継ぎにならなかったのは

孫紹が孫策と大喬の間に生まれた息子で、

 

大喬が孫策の子である孫紹をお腹に宿していたけど、

まだ生まれていなかった為に弟である孫権を跡継ぎにしたと言えるんじゃないでしょうか?

 

 

実際のところ「孫紹の母が誰か?」と言うのは分かっていません。

 

ですが、時代の移り変わりによる前後関係を見ると、

孫紹は大喬の子であった可能性は普通にあります。

 

孫策は大喬と夫婦になったばかりで寵愛を受けていた事も考えると尚更です。

小喬に子供がいた可能性を探る

小喬が周瑜と夫婦となったのは、

孫策と大喬の二人と同じく早くても199年7月頃であり、

 

その後に周瑜が35歳で亡くなったのが210年になります。

 

 

上でも述べましたが、

そのことからも二人の夫婦生活は約11年続いていることを考えると、

 

「二人の間に子供がいた可能性は相当高い」と思われます。

 

 

そして周瑜は生涯を通じて、周循・周胤の二人の息子、

一人の娘周妃しゅうひを授かっています。

 

 

 

周瑜は「美周郎」と呼ばれたほどの美男子であったことから、

小喬以外にも妻を娶っていた可能性も十分にありますが、

 

周瑜の側室についての記録は一切の残っておりません。

 

 

その点を考えると、周瑜自身もまだ若い時でしたし、

 

小喬が最初の妻であり、

生涯を通じて一途に愛し続けた可能性は普通にあると思います。

 

そして二人の息子一人の娘を授かったという流れですね。

 

 

このように考えた場合は

正史に母親の記録こそないものの、

周瑜の子として記録が残る三人全員が小喬の子供達であった可能性はある」と思いますね。

絶対音感の持ち主、周瑜!?

周瑜の子供達(周循・周胤・周妃)のその後

長男であった周循は、

周瑜の面影があったらしく、

 

孫権と歩夫人の娘である孫魯班を妻に娶っていますが、

残念ながら早世してしまっています。

 

 

また次男であった周胤も、

孫権の一族の娘を妻に娶ってはいましたが、

 

素行が悪かった事もあり、最終的に不遇の死を迎えてしまっています。

 

 

ちなみに娘であった周妃は、

孫権の皇太子であった孫登に嫁いでいます。

 

 

そして周妃の夫であった孫登は、

父親である孫権からの愛情も少ないままに早世していますが、

 

それよりおも早く周妃は早世しています。

 

 

 

周瑜の二人の息子は孫権の一族の女性を娶っており、

 

一人娘の周妃も孫権の皇太子であった孫登に嫁いでいる点からも、

孫権が生前の周瑜に対して、大きな感謝と大きな恩義を感じていたがかうかがえます。

 

 

単純にもともとの家柄的なことから、

名家であった周家との繋がりを強くしたいという思惑もあったのでしょうけれど・・・

 

ただ三人に共通のこととして、全員が早世してしまったことは悲しい事です。

周瑜同様に薄命だった子供達(周循・周胤・周妃)

二人には子供がいた可能性があった

 

「大喬は孫策との間に子供がいなかった」

「一方の小喬も周瑜との間に子供がいたかどうかは不明」

というのが記録上の一般的なことではありますが、

 

 

こういうふうに歴史を前後から読み解いて想像する事で、

 

大喬と孫策・小喬と周瑜の双方に、

子供がいた可能性がある事が分かります。

 

 

 

もし孫紹が孫策と大喬の間にできた息子でなかったとしても、

周瑜と小喬の間には、非常に高い確率で子供は生まれていたと思います。

 

一人であったか二人であったか三人であったかの違いだけです。

その後の大喬・小喬

ただ大喬と小喬の二人が夫を亡くした後に、

幸せな生涯を送ったのかどうかまではさすがに分かりませんが、

 

大喬は夫婦になってすぐに孫策を亡くしている事からも、

幸せな人生は送れなかったかもしれませんね。

 

あくまで普通に考えたらそうなると思います。

 

 

しかし小喬は周瑜と夫婦になってから、

11年間を共に過ごすことができているのですから、

 

姉の大喬と比較しても十二分に幸せな生涯だったでしょうし、

二人の間に子供を授かっていたとしたら、尚更に幸せだった可能性は高いと思います。

 

 

ただそれと同時に覚えておかなくてはいけないことは、

小喬と周瑜との間の子供達が周循・周胤・周妃であったならば、

 

周瑜・周循・周胤・周妃と立て続けに、

愛する夫と愛する子供達を亡くしているわけですから、

 

そういう意味では、沢山の悲しみを味わった女性であったとも言えるかと思います。