「空城の計」といって真っ先に名前があがるのは、

間違いなく諸葛亮でしょう。

 

 

街亭の敗戦後、諸葛亮が少数で守る城に、

大軍を引き連れた司馬懿がやってきます。

 

そこで諸葛亮が実行に移したのが四方の城門を開け放ち、

門前を掃き清めた「空城の計」でした。

 

 

ただこの話は三国志演義に登場する話になります。

 

一言で言ってしまえば、

フィクション(架空の話)ということですね。

 

 

 

「では三国志の時代に、空城の計を行った人物は誰もいなかったのか!?」

というと話はまた別でして・・・

 

ここではそのあたりも含めて、「空城の計」について深堀りしていこうと思います。

諸葛亮が行った「空城の計」(三国志演義)

司馬懿軍が迫る中で、四方の城門を開け放って待ち受け、

諸葛亮自身は楼上で琴を奏でていました。

 

その様子を見た司馬懿は、

「孔明は普段から危険なことはせぬ男だ!!」

と言って戦わずして撤退したわけです。

 

 

 

では正史に諸葛亮の「空城の計」が全く出てこないのかというと、

郭沖の話の中に出てきていますが、信憑性は低いと言われていますね。

 

 

 

そのあたりの理由は三つありますし、もっと言ってしまえば第一次北伐の際に、

諸葛亮と司馬懿の直接対決は間違いなくなかったからです。

 

 

諸葛亮が漢中の陽平関にいた時には、司馬懿は宛城にいたはずですからね。

 

そもそも第一次北伐での司馬懿の活躍は、

蜀と内通していた孟達を討ち取ったことぐらいです。

 

 

なので勘違いしている人もいたりしますが、

 

は司馬懿が馬謖を打ち破ってるいる街亭の戦いは三国志演義の内容に過ぎず、

実際は張郃が打ち破ったのが事実になります。

諸葛亮「空城の計」の生みの親である郭沖

趙雲の「空城の計」-漢中争奪戦-

趙雲の「空城の計」が発動するのは、

劉備が漢中へと侵攻した際の話になります。

 

 

食糧を奪いに行った黄忠がなかなか帰還してこなかったことで、

少数の兵士を連れて助けへかけつけたのが趙雲でした。

 

しかし不運にも趙雲が遭遇したのは曹操軍だったのです。

 

 

ここで趙雲は何を思ったか、敵軍へと突撃を開始したわけですが、

この趙雲の突撃に驚いた曹操軍は、混乱を起こし兵は撤退を始めました。

 

 

しかし趙雲は曹操軍を追撃するどころか、

自軍の砦へと撤退を開始したのでした。

 

それを見た曹操軍は軍をまとめなおし、急いで趙雲を追撃したわけです。

 

 

しかし曹操軍は趙雲が籠る陣を前にすると、進軍を急遽停止しています。

 

なぜなら陣の門が開け放たれているだけでなく、砦の中から物音一つしなかったからです。

 

 

撤退したり追撃したりと忙しい曹操軍ですが、

伏兵の可能性を考えて再度撤退を開始…

 

そこに襲い掛かったのが、

砦の外に潜ませていた趙雲軍の伏兵でした。

 

これにより曹操軍は散々に打ち破られています。

 

 

そして趙雲のこの作戦が、三国志の記録を探る上で、

最初に行われた「空城の計」と考えてよいでしょうね。

横山光輝三国志(39巻110P)より画像引用

 

この話は趙雲の「空城の計」というよりも、

 

「子龍は一身これすべて胆なり」

と劉備から言われた戦いとしての方が有名だったりします。

 

 

まぁこれは「趙雲別伝」に書かれている内容ですが、

 

三国時代よりだいぶ先である北宋時代に、

司馬光によって1084年に編纂された資治通鑑しじつがんに載ってる内容でもあります。

趙雲 -正史の記述に収まりきれない魅力の持ち主-

文聘の「空城の計」石陽の戦い

次に紹介するのは文聘になります。

 

文聘はもともと劉表の臣下であり、劉琮が曹操に降伏した際には、

国を守れなかった事に涙を流した人物ですね。

 

 

曹操に仕えてからの文聘は大きな信頼を受け、

孫権との国境にあたる江夏太守に任じられています。

 

ここからが文聘の半ば無双状態に入るわけですが、

数十年に渡って、江夏を守り続けたわけです。

 

ちなみに敵は関羽・孫権などで、相手にとって不足がない相手なわけでして・・・

 

 

ただそんな中で文聘にとって最も大きな戦いといえるのは、

 

曹丕が死んだ事で孫権自ら仕掛けてきた、

石陽の戦い(226年)でしょう。

 

孫権は文聘が守る江夏へ、五万の兵士を引き連れて侵攻を開始します。

 

 

しかし文聘の守りを崩すことができず、

文聘の勝利で終わった戦争ではあるのですが、

 

この戦いの中で文聘が「空城の計」を用いたという記載が残されていたりします。

 

それは魏の歴史についての記録が書かれた「魏略(典略)」の内容です。

魏略に書かれている「空城の計」

孫権が自ら軍勢を引き連れて攻めてきた際に、

文聘の守る城は少し前の大雨によって、城の防御柵が壊れていたといいます。

 

そしてその補修がされる前に、孫権が大軍を率いて攻め込んできたわけです。

 

 

 

普通ならば慌てるところですが、ここで文聘は一計を案じます。

 

敵から見えないように兵士を隠し、

自分自身も宿舎で横になって無人の城のように見せたのでした。

 

 

文聘や兵士の姿が見えないことに疑問を抱いた孫権は、周りの者達に次のように語ったといいます。

 

「文聘が江夏を任せられたのは、忠臣だったからである!

それなのに私が攻めてきてるにも関わらず、姿を見せないのはおかしい!!

 

その理由は明確で、文聘には我々を撃退する作戦を心の中に秘めており、

おそらく外からの援軍も近づいてきているのであろう」と・・・

 

そして孫権は城を攻撃することもなく撤退したといいます。

 

 

 

個人的な閑雅としては、

敵から見えないようにする事の意味はないような気がします。

 

普通に考えると油断している姿を相手に見せる事で、効果を発揮しやすいと思いますし・・・

 

ただ「三国志演義」に記載される諸葛亮の「空城の計」よりは、

普通に真実味がある内容だとも思いますけどね。

 

 

とにもかくにも三国志で「空城の計」と思われる記載が残るのは、

趙雲・文聘・諸葛亮の三名のみであり、

 

それぞれが、どういう場面で、「空城の計」が用いられたのかを見てみました。

この記事を読んで頂いた皆さんは、どの「空城の計」が真実味が深いと思いますか?

江夏を守り抜いた忠義の士「文聘」