三国志陳寿の著した「三国志」だけでなく、

後世に描かれた小説「三国志演義」と比較されることが多いものです。

 

 

一般的には劉備を主人公とする「三国志演義」の方が、

横山光輝さんが描いた漫画の影響などもあって知られている気がしますが・・・

 

 

そんな三国志演義ですが、

正史に登場しない武将が沢山登場していることでも知られています。

まぁ物語を面白くする上で作られたキャラクターというべきですかね。

 

 

また正史にも三国志演義にも登場しない武将もいたりします。

 

ここではそんなオリジナルキャラクターの可能性が高い人物なのに、

実際に墓が立てられている人物にスポットをあてて紹介してみたいと思います。

「三国志演義」に登場するオリジナルキャラクター

「三国志演義」に登場する人物は、

大雑把ですが約1200人が登場しています。

 

他にも三国志演義に大きな影響を与えた「三国志平話」があったりもしますし、

関索を主人公とする「花関索伝」あたりも有名ですね。

 

それらを色々合わせると

150人以上のオリジナルキャラクターがいたりするわけでして・・・

 

 

 

代表的な人物でいえば、

「美女連環の計」で知られる貂蝉が代表的な例でしょう。

 

 

まぁ実際は元ネタになった侍女がいるので、名前が分かっていないだけで、

完全なオリジナルキャラクターとは違ったりはします。

 

 

それを言えば、曹操が惚れた張済の未亡人であった鄒氏もそうなります。

 

「曹操の妾になった」ときちんとした記載があるけれども、

現在に名前が伝わっていないというだけですし・・・

 

南蛮王であった孟獲の妻である祝融夫人なんかは、完全に創作ですけどね。

 

 

女性ばかり例に出してきましたが、

男性にも沢山のオリジナルキャラクーが存在します。

 

 

赤壁の戦いで周瑜に利用される為だけに、

わざわざ登場する蔡和・蔡中であったり、

 

関羽が関所を打ち破って、

劉備の元に行く際に出会った胡班も比較的有名かもしれません。

 

胡班の父親である胡華もですが・・・

 

 

またこの時に関羽によって切られた関所の守将である

王植・孔秀・韓福・卞喜らも正史に登場しないキャラクターですね。

 

その関羽に関連する人物としては、関索周倉なんかもそうです。

 

 

このように話し出すと切りがないほどに、

次々とオリジナルキャラクターが登場しているわけです。

 

ただ適材適所でそういった人物が登場しているからこそ、

三国志演義がますます面白いものになっていることだけは間違いないですけどね。

関羽が千里行の末に、劉備の元に帰参した話って本当なの?

貂蝉・周倉・鮑三娘

架空のキャラクターが沢山登場する三国志の世界ですが、

今回注目したいのは貂蝉・周倉・鮑三娘の三人です。

 

三人とも正史には登場しないキャラクターですが、

根強い人気がある者達でもあります。

 

貂蝉・周倉は「三国志演義」から、

鮑三娘は「花関索伝」で登場する関索の妻になりますね。

 

 

この三人は実際に存在していなかったにも関わらず、何故か三人とも墓が実在していたりします。

 

おそらく可能性の話ではありますが、

人々から愛された結果として、お墓が建てられたのかもしれませんね。

貂蝉の人となり&貂蝉の墓

「三国志演義」に王允の養女という設定で登場する貂蝉ですが、

絶世の美貌を誇っていたことで知られます。

 

王允は貂蝉を使って董卓と呂布の間を引き裂きます。

世に知られる「美女連環の計」ですね。

 

最終的に貂蝉は役目を果たし、呂布によって董卓は殺されたのでした。

 

 

役目を果たした貂蝉は安心して自害して果てたのですが、

 

楊貴妃・西施・王昭君と並び、

古代中国の四大美人の一人として数えられています。

 

 

実際に貂蝉は存在していないのに、

存在した他の三人と並び称されることは面白いことですが、

 

貂蝉については色々な話が現在に伝わっています。

 

 

その中でも董卓死後も自害せずに生き延び、

その後に曹操から関羽に与えられたという話もあったりしますが、

 

一番面白いものとしては華佗によるサイボーグ説かもしれませんね。

 

 

 

多くの人々に愛された貂蝉ですが、

山西省忻州市木芝村貂蝉の墓があったりします。

 

 

貂蝉は「三国志演義」で登場する架空の人物だとされますが、

董卓・呂布に惚れられた侍女の存在があったのは記録として残っており、

 

ただその侍女の名前が分からないだけで、そもそもの貂蝉はそこから誕生していたりします。

 

 

まぁ色々と説はあるので一概には言えませんが、

 

元代の雑劇「錦雲堂美女連環計」では、

姓を任、名を紅昌、字を貂蝉と設定していたりもしますね。

 

他にも実際の貂蝉の姓は仁、字は紅昌であったとか・・・

 

 

そんな貂蝉の墓がなぜ木芝村にあるのかというと、

もともと木芝村が貂蝉の故郷であるとされているからです。

 

 

ただ貂蝉の故郷は并州五原郡九原県木耳村とされているので、

木耳村から木芝村になったとされていますが、

 

村が立地的にズレていたりする矛盾があったりするのも現状です。

 

 

ちなみに木耳村の由来は、名前から見たらわかりますが、

木耳(キクラゲ)が沢山取れることが由来となっています。

 

この村には貂蝉の墓以外にも、貂蝉像であったり、

貂蝉の生涯を人形で紹介している貂蝉彩塑館などがあったりします。

 

 

これらがある場所を貂蝉陵園と呼び、

四千平方メートルというあまりの広大なものでありますが、

 

現在では荒れ果てていたりするのが残念な所でもあります。

華佗作「貂蝉改造計画/サイボーグ貂蝉(ちょうせん)」

周倉の人となり&周倉の墓

周倉は「三国志演義」に登場する人物で、

黄巾賊の賊徒として登場していますが、後に関羽に惚れ込んで仕えています。

 

そして関羽に仕えた周倉は関羽が死ぬまで、

関羽の側で仕え続けた忠将としても知られています。

 

 

荊州争奪戦で敗れた関羽が討たれると、

周倉も関羽の後を追って自害して幕を下ろすわけですが、

 

人々から深く愛された周倉は、関羽を祭る関帝廟に、

息子である関平と共に祭られるほどになった人物ですね。

 

ただ関羽の側に常にいた人物はいたとされており、

「蜀志」関羽伝の中に呂布という人物が登場する事から、

 

「周倉=呂布(姓を呂、名を布、字を周倉)」ではなかったのかという説もあったりします。

まさに貂蝉の男性版みたいな感じですね。

 

そんな周倉ですが次のような話もあったりします。

関羽は一日千里を走る赤兎馬に乗っており、周倉は毎日走りながら関羽についてきていました。

 

それを不憫に思った関羽は、なんとか九百里を走る馬を見つけ、

必死についてきてくれる周倉に与えたといいます。

 

しかし一日百里の差が出てしまうことから、

周倉は残りの百里を馬を担いでついていったという化物的な逸話ですね。

 

 

そんな周倉ですが、当然の如く架空の人物であるにも関わらず、

 

周倉が自害して果てた麦城の近く(湖北省当陽県麦城村)には、

周倉の墓だとされる盛り土があったりします。

 

また盛り土の前には、

「漢武烈侯周将軍諱倉之墓」立派な墓碑も置かれています。

周倉 -物語から現実世界へ飛び出した忠義の士-

鮑三娘の人となり&鮑三娘の墓

最後に紹介する三人目は、

「花関索伝」に登場する鮑三娘です。

 

鮑三娘は、鮑凱(鮑員外)の三番目の娘であり、

美貌の持ち主という設定で登場します。

 

 

鮑三娘には求婚者が度々現れるも、

 

「自分より弱い者とは結婚は致しません。」

と言って毎度の如く、訪れた求婚者を自らの武勇をもって追い払っていたのです。

 

 

 

そこに登場したのが、関羽と胡金定の間に生まれた関索でした。

一応軽く補足しておきますが、胡金定も関索も架空の人物です。

 

 

そんな関索ですが、鮑三娘と打ち合って見事に勝利します。

 

関索に負けた鮑三娘は関索に嫁ぐという流れになるわけですが、

常に二人は同じ戦場で戦い続けました。

 

 

 

ですが関索が南蛮討伐の先鋒を任された際に、

鮑三娘が葭萌関の守りを任されたことで、二人は離れ離れになる事態になってしまいます。

 

 

鮑三娘の事が気になる関索に対して、

 

「私の事は気にせずに、国の為に頑張ってきなさい!!」

と励ました逸話が有名だったりしますね。

 

ただそれが今生の別れになろうとも知らずに・・・

※関索は南蛮討伐で病死&蜀滅亡時まで生きていた話もあります

 

 

そんな鮑三娘ですが、

四川省広元市の昭化区曲回郷鴨浮村に、

 

もう少しわかりやすく書くと、昭化古城から大体6kmの所に、

鮑三娘の墓があったりします。

 

そして鮑三娘の墓にはしっかりと、

「漢将軍関索妻鮑夫人之墓」と書かれていたりします。

 

 

「花関索伝」に登場する架空のキャラクターである鮑三娘、

そもそも彼女の墓があるというのがおかしな話ですが、

 

過去に幾度か盗掘にあったりもしているそうで、

比較的近年である1914年に、フランス人によって発掘調査が行われ、

煉瓦に描かれた絵画などが発見されたと言われています。

 

ただ時代が時代なだけに、そのまま持ち去ってしまったとか・・・

 

 

そういうこともあり、墓を守る意味でも、

1996年に文物保護単位に定められています。

 

 

実在しなかった人物の墓が建てられ、文物保護単位に任じられるとは、

終始にわたって不思議でしかありませんね。