諸葛亮の妻といえば黄月英ですが、
実際は名前すら伝わっていない女性で、
他にも黄婉貞や黄夫人や黄氏と呼ばれることが一般的ですね。
諸葛亮に負けず劣らずというか、
諸葛亮以上の発明家だとも言われることもある黄月英ですが、
どういった女性だったのか、正史に残る記述から多くの逸話なども含めてみていきます。
「正史」に描かれる黄月英
黄月英と呼ばれることが圧倒的に多いとは思いますが、
黄婉貞と呼ばれることもありますね。
他には黄夫人や黄氏と単純に呼ばれることもありますが、
黄月英とか黄婉貞の名前というのは、後世に付けられた名前であって、
彼女がどういう名前だったのかなどは現在に伝わっていません。
ちなみに正史では、黄夫人として登場しています。
そもそものお話として、女性の名が分かっている人物の方が珍しい時代なので、
伝わっていないのは当然といえば当然だとは思いますね。
ただここでは一般的に浸透している黄月英で、名前は統一して使っていきます。
黄承彦の娘として生まれた黄月英ですが、
非常に醜い顔をしていたといいます。
実の父親である黄承彦でさえも、わが子がかわいいとはお世辞にも言わず、
「私の娘は赤髪(金髪)で、色黒で、不細工だ!
(身有醜女、黄頭黒面)」と言っていたほどです。
また黄月英を妻に選んだ諸葛亮をなじって、
「孔明の嫁選びを真似するな!」なんても言われた逸話も残っていますね。
ただ見た目とは裏腹に、
「黄月英は才知に非常に富んだ女性(才堪相配)」だったといいます。
そして黄月英について書かれてある正史の記録は、たったのこれだけで終わっています。
もう少し正確に言うと、
「蜀志(蜀書)」の中の諸葛亮伝に、
註に引かれている「襄陽記」にこれらの記述が残されている感じです。
ちなみに「襄陽記」は、
晋(東晋)の習鑿歯によって編纂されたもので、
蜀漢に仕えた習禎の子孫にあたる人物になりますね。
黄月英が何故に不細工と言われたのか?
当時の美人・不細工の基準というのが案外はっきりしています。
黄月英が不細工といわれるのは、単純に美人の基準と真逆の容姿だったからです。
次にあげるのが美人の条件になります。
- 黒髪(黒毛)
- 色白
- 背が高い
美人・不細工の基準は時代によって違うので一概には言えませんが、
簡単に言ってしまうと、黄月英は背が低かったかどうかは不明ですが、
当時の不細工である条件を二つクリアしてることになりますね。
赤毛に色黒・・・
上のように言える明確な理由として、
黄月英以外にも容姿の醜さについての記載がある人物がいるからです。
それは悪女で知られる賈南風ですね。
賈南風の父親である賈充が裏工作をし、
司馬炎の太子であった司馬衷の妻にしようと画策したのですが、
この時に司馬炎は賈南風のことを、
「賈南風は背が低く、色黒だから不細工である!」
とはっきりと言っています。
また同時に司馬炎は、美人として知られた衛瓘の娘を、
「背が高く、色白である事」を美人の条件として褒め称えています。
これらのことからも不細工と言われる条件は、次のようなものだったのでしょう。
- 赤毛(黄月英)
- 色黒(黄月英・賈南風)
- 背が低い(賈南風)
後はこれらの条件を多く含むほど、
当時は不細工な女性であると判断されていたのだと思います。
ただ赤毛で色黒だった黄月英は、
西域(インド系)から渡ってきた女性だったからこそ、
そういう見た目だったという伝承もあったりします。
その場合は黄承彦の娘ではなく、
養女という立ち位置になるとは思いますが・・・
そう言えるのは黄月英の母親が、西域人とする考えには無理があるからです。
黄承彦の妻は蔡瑁の姉なので、
さすがに西域の血が引き継がれているというのは・・・
他には「ローマ帝国からやってきた」という説すらあったりします。
黄月英の逸話①(発明家×美女)
ある時に、諸葛亮が黄承彦の家を訪ねると、
いきなり猛犬や猛虎が飛び出てきたことで諸葛亮は驚きます。
しかし猛犬や猛虎は諸葛亮を襲ったのではなく、
猛虎が猛犬を追っているカラクリ仕掛けでした。
そして諸葛亮が黄承彦がいる客間に通されると、更に諸葛亮が驚くことが目の前で起こります。
カラクリ仕掛けの木人形がお茶を運んできたのです。
後にこれらのカラクリ仕掛けを作ったのが、黄承彦の娘である黄月英だと知った諸葛亮は、
「黄月英を妻に迎えたい!」と黄承彦に伝えたのでした。
後日、黄月英に会うことになった諸葛亮ですが、
黄月英を目の前にしてびっくりします。
諸葛亮は事前に聞いていた話では、
「赤毛で、色黒な上に、あばた顔の女性」なはずが、
絶世の美女が目の前に現れたからですね。
黄月英は見た目ではなく、中身で私を選んでくれる男性を探していました。
黄月英はわざと不細工であるという情報を世間に流し、
つまらない男が寄ってくるのを避けていたというわけですね。
そして最終的に、自分という人間を中身で選んでくれた諸葛亮の妻になったのでした。
黄月英の逸話②(黄月英への弟子入り)
ある時に諸葛亮が、劉備らと共に作戦会議をしていた時に、
黄月英に蕎麦を作ってくれるようにお願いしたことがありました。
ただ「蕎麦を作ってくだされぬか!?」と言ったのは、
諸葛亮の黄月英に対する冗談であったにも関わらず、
すぐに蕎麦が出てきたことに諸葛亮は大いに驚くことになります。
当たり前の話ですが、そば粉から蕎麦を作るとなると大変な時間がかかるからですね。
それなのにあっさりと蕎麦がでてくるものだから・・・
このことを不思議に思った諸葛亮は、
別の機会にこっそりと蕎麦を作る様子をのぞきます。
そうするとカラクリ仕掛けを使って、
小麦粉をひいては練り、
カラクリ仕掛けで作られた蕎麦を黄月英が茹でている姿がありました。
これに驚いた諸葛亮は、
妻である黄月英に弟子入りを所望したのでした。
そして後に北伐で活躍した木牛流馬は、
黄月英の助けもあって完成することになるのでした。
ちなみにここでの話は蕎麦ですが、
からくり人形を使ってウドンを作ったという似たような話が別にもあったりします。
黄月英の逸話③(黄月英からの夫としての条件)
諸葛亮のもとへ黄月英の嫁入りが決定した頃に、
黄月英から結婚するにあたっての条件が出されます。
その言葉とは次のようなもので、
「私が貴方に嫁入りする日には、輿にも馬にも船にも乗りません。
ましてや徒歩なんて尚更に・・・
もしそれが叶わないようなら、
この縁談はなかったものとしてお願いします。」というものでした。
そこで諸葛亮は試行錯誤を繰り返し、
頭が馬で、胴が牛の「諸葛亮車」が完成したのでした。
もちろんこれは木牛流馬の事ですね。
そして黄月英は、木牛流馬に乗って嫁いでいったのでした。