劉備死後に益州南部で反乱を起こした一人に、高定という人物がいます。

 

反乱の首謀者は雍闓という人物ですが、

それに同調して反乱を起こしたのが越巂郡の高定であったり、

 

他にも牂牁郡で反乱を起こした朱褒がいたりしますね。

叟族の王、高定(こうてい/高定元)

高定益州南部越巂郡の出身で、叟族の王(族長)だったといいます。

 

 

越巂郡はもともと異民族が多い地域ですし、

 

「三国志演義」で南蛮王として登場する孟獲よりも、

サブ役の高定の方が、本来はきちんとした異民族の王だったりするんですよね。

 

 

高定は「蜀志」李厳伝や呂凱伝にも登場していますが、

常璩の「華陽国志」にも登場していますね。

 

ただ「華陽国志」では高定という名前ではなく、

高定元という名前で登場しているのは余談です。

 

 

また陳寿の三国志だけでは情報量があまりにも少なすぎることもあり、

「華陽国志」も大きく参考にしながら高定という人物について見ていこうと思います。

雍闓の反乱に呼応する

横山光輝三国志(45巻178P)より画像引用

 

蜀漢の南方ではたびたび反乱が起こっていましたが、

その中で高定もまた反乱を起こし、新道県を包囲したこともありました。

 

ちなみに新道県を包囲したのが「建安二十三年」とあるので、

218年ということになりますね。

 

 

高定が起こしたこの反乱は、

犍為太守であった李厳によって撃退されて失敗に終わっています。

 

ちなみにですが高定を撃退した時の功績で、

李厳が輔漢将軍に任じられているのは完全に余談です。

 

 

 

それから五年の月日が流れた223年、

劉備が夷陵の戦いに敗れて亡くなってしまうと、雍闓の反乱が勃発します。
そして雍闓の反乱にまず呼応したのが、

益州郡の隣郡であった牂牁郡の朱褒だったのですが、

 

高定もまた越巂太守を自称して呼応したのです。

 

 

この際に高定は李承之に命じて、

もともとの越巂太守であった焦璜しょうこうを殺害したりもしていますね。

 

 

ちなみにですが、高定だけでなく、

朱褒もまた牂牁太守を自称していたり・・・

内部分裂×雍闓殺害

横山光輝三国志(46巻85P)より画像引用

 

益州郡で反乱を起こした雍闓ですが、

その裏では呉と通じており、孫権から永昌太守に任じられていました。

 

雍闓は益州太守であった正昂を殺害したり、

その後任として送られてきた張裔を呉の孫権に送ったりしてもしていますね。

 

 

それから雍闓は、永昌郡へと侵攻を開始していますが、

永昌郡の呂凱・王伉らに抵抗を受け永昌郡奪取に失敗しています。

 

 

雍闓はなんとか永昌郡を手に入れたかったようですが、

 

「蜀志」呂凱伝には、雍闓の先祖である雍歯の名前を出しつつ、

逆に雍闓を説得して反乱をやめさせようとした文章が残されています。

 

 

しかし劉禅が呉の孫権と和解し、諸葛亮の南征に強く反対していた王連が亡くなると、

諸葛亮自ら雍闓・朱褒・高定らを討伐するために自ら出陣してきます。

 

ちなみにこの時に諸葛亮は、陸路ではなく水路を利用しての進軍でした。

 

 

陸路からの進軍だと勘違いしている人も結構いたりしますが、

 

実際は高定の根回しによって、成都から越巂郡までの陸路を防がれていたことから、

水路からの進路を選択したという流れだったのです。

 

諸葛亮の軍勢と激突することになった高定でしたが、普通に敗北を喫しています。

 

 

そして敗れた高定は雍闓の元へと撤退していくわけですが、

既に雍闓は蜀漢の軍勢に恐れをなして降伏していたと思われます。

 

その理由としては、諸葛亮と共に南征に従ってきた新益州太守に転任された王士も、

何故か雍闓と共に殺害された記載が残されているからです。

 

 

雍闓の立場としては永昌郡を手中に収める事に失敗し、

孫権の後ろ盾を失っただけでなく、

 

諸葛亮自らが李恢・馬忠ら別動隊も率いて侵攻を開始してきた事で、

完全に弱腰となってしまったのでしょう。

 

 

ただこれに大きな怒りを覚えたのが高定で、

 

「勝手に反乱を起こして、

何を真っ先に降伏してるんだ!?」

みたいな感情になった可能性が高く、仲違いする形で雍闓を殺害してしまったのでした。

呂凱 -雍闓・高定・朱褒に徹底抗戦した呂不韋の末裔-

高定の最後×反乱者のその後

雍闓を殺害した高定ですが、

雍闓の後釜となった孟獲と協力しようとものの、

 

劣勢を挽回できるわけもなく、

高定は諸葛亮に捕らえられて処刑されてしまいます。

 

まぁこれは後日談になりますが、高定が処刑され、

南方平定がなされてからも叟族はしばしば反乱を起こしていたりします。

 

 

一方の孟獲はというと、「七縦七擒」の逸話でも知られるように、

その後も何度も諸葛亮と戦い続けるも最終的に降伏していますね。

 

降伏後の孟獲は、御史中丞にまで出世を果たしていたりします。

 

 

実際に「七縦七擒」で言われるように、

 

「七回捕らえられて七回開放されたか?」

は結構疑問であったりはします。

 

それは単純に期間的な問題もあったりします。

「蜀志」諸葛亮伝には次のように記載が残されています。

三年春 亮率衆南征 其秋悉平。

 

建興三年(225年)の春に出陣した諸葛亮ですが、秋には平定したと書かれてあったりします。

 

 

更に正確な期限が書かれてあるのが「蜀志」後主伝ですね。

三年春三月 丞相亮南征四郡 四郡皆平。

改益州郡為建寧郡 分建寧永昌郡為雲南郡 又分建寧牂牁為興古郡。

十二月 亮還成都。

 

ここに何が書かれてあるか簡単に言ってしまうと、

建興3年(225年)三月に諸葛亮が四郡平定の為に南征し、四郡平定に成功し、

その年の十二月に成都へ帰還したという旨が書かれてあります。

 

つまり約十カ月もない期間のうちに孟獲を七度も捕らえた事になるわけですね。

 

 

ちなみに七縦七擒の話は、

陳寿の著した「三国志」の原文には登場していません。

七縦七擒の話どころか、そもそも孟獲という名前すら登場していませんが・・・

 

七縦七擒の話が登場するのは、

この記事でも参考にさせて頂いている「華陽国志(常璩)」であったり、

 

裴松之が注釈を加えている「漢晋春秋」にその言葉が見られます。

 

 

また参考までに孟獲の名前が登場しているのは、

 

これまた華陽国志であったり、

裴松之が注釈として加えた「漢晋春秋」や「襄陽記」だったりします。

 

 

 

次にあまり登場していませんが

雍闓・高定と並んで反乱を起こしていた朱褒ですが、

 

馬忠に敗れた後にどうなったのかは分かっていませんが、

普通に考えると討ち取られたか、どこかへ逃げ去ったという感じでしょうね。

「七縦七擒」の名前の由来となった孟獲

〈正史と真逆の結末〉「三国志演義」での高定

横山光輝三国志(46巻100・101P)より画像引用

 

最終的に諸葛亮に捕らえられて処刑された高定ですが、

三国志演義での高定はというと、正史と真逆ともいえる結末になっています。

 

 

「どう真逆なのか!?」というと、

正史では普通に諸葛亮に処刑された高定でしたが、

 

「三国志演義」では、諸葛亮の離間の計にかかり、

色々といいように利用されて雍闓・朱褒を殺害した高定でしたが、

 

反乱を起こした雍闓と朱褒の領地も合わせて、三郡の統治を任されていますね。