劉寵(りゅうちょう)
劉寵は漢王朝の皇族にあたる人物になります。
「漢王朝の末裔が誰か!?」
と言われれば、
劉備・劉表・劉焉・劉繇などの名前を挙げる人が多いと思います。
確かにこれらの人物も
漢王朝の血を引いていることに違いはありませんが、
袁紹から皇帝に祭り上げられようとしながらも、
それを断った劉虞の方が立場的にはかなり上にあたる人物ですね。
なぜなら劉虞の先祖は、
漢王朝を復興させた光武帝(劉秀)の長男である劉彊の血筋にあたるからです。
※劉彊の血筋=東海王家
もともとは長男という立場から、
本来であれば劉彊は後漢二代皇帝となるべき人物だったのですが、
色々あって自ら皇太子の座を降りた人物という特殊な立場の人物になります。
だから劉虞は劉備・劉表・劉焉・劉繇らと比べても、
別格な血筋というわけです。
まぁそんな別格な血筋を持つ劉虞ですが、
最終的に悲惨な最後を遂げているのはかるく余談だったりします。
劉虞は公孫瓚との激突で大軍を率いながらも、
意味不明なことを言い出した挙句に公孫瓚に捕らえられ、
「雨を降らせられないようなら死ね!」
と公孫瓚の無茶振りで処刑されるという・・・
まぁ劉虞にしても劉備・劉表・劉焉・劉繇にしても、
これらの人物は正史どころか三国志演義にも普通に登場しますし、
なんならKOEIの三国志でも当たり前の群雄として登場していますし、
馴染み深い人物ばかりでしょう。
しかしここで紹介する劉寵は、
知名度的にはかなり低い人物ですね。
劉寵は後漢の二代皇帝明帝(劉荘)の子である劉羨から数えて、
六代目の陳王になりますので、
劉寵は上で登場した劉備・劉表・劉焉・劉繇なんかより、
完全な皇族×皇族している人物なんです。
しかし不思議と三国志演義どころか正史にも登場しない人物なだけでなく、
KOEIの三国志にすら未だに登場していません。
個人的にはそのうち登場する人物の一人だとは思っていますが・・・
劉寵の生涯
劉寵は明帝(劉荘)の末裔で、
陳孝王であった劉承の子として誕生しています。
その後に父親である劉承が死亡すると、
「爵位を引き継いで陳王の位に・・・」
という流れですかね。
そんな劉寵ですが、弓矢を得意としており、
その腕前は半端ないほどのものだったようで、
矢を放てば同じ場所に何度も矢が突き刺さり、
十発十中のほどの腕前だったといいます。
どうせなら十発十中ではなく、
百発百中と言ってほしかった気がしますが・・・
まぁ百発百中と記録が残ってる人の方が逆に怪しさが残るわけで、
逆に十発十中とあえて記載が残ることで真実味があるわけですけどね。
そんな劉寵ですが、
「皇帝になりたい!」との野心を持ったことで、
173年に陳国相であった師遷によって告発されてしまうものの、
劉寵が罪にとわれることはありませんでした。
そこには霊帝(劉宏)が少し前に皇族であった劉悝を
謀反の罪で自殺に追い込んだばかりだったので、
霊帝としても劉寵を罪に問う事を嫌ったのが、
許された原因になったという裏事情があったりしたわけですが・・・
ちなみに劉悝は桓帝(十一代皇帝)の弟にあたる人物ですね。
霊帝はその跡を継いだ十二代皇帝ですから、比較的近い関係だったことが分かります。
霊帝の気紛れにより罪に問われることがなかった劉寵でしたが、
劉寵を告発した師遷は、陳王である劉寵の野心をでっちあげた罪により、
あべこべに処刑されてしまうという理不尽な最後を迎えることになってしまっています。
黄巾の乱での活躍
184年に張角・張宝・張梁の三兄弟による
黄巾の乱が勃発すると、
漢王朝に不平不満を持つ民衆が次々と加わり、
黄巾の火の手は中国全土へと広がりを見せていくのでした。
そして陳国周辺でも次々と反乱が起こり、
多くの守将が民衆を見捨てて逃げ出していく中にあって、
弓を得意としていた劉寵は、
数千人にも及ぶ弩兵隊を率いて陳国を守り通しています。
そんな噂を聞きつけて劉寵を頼ってきた者は、
十数万人にものぼったといわれています。
長江を渡ってまでは避難する予定の無かった人達にとっては、
劉寵が守ってくれている陳国は、
これ以上ない場所の一つだったと言えるでしょうね。
袁術の逆恨み×殺害
反董卓連合軍が結成されると、
劉寵も兵を率いて陽夏に駐屯し、輔漢大将軍を自称したといいます。
まぁ皇族であった劉寵の自称などはまだかわいいものです。
他の群雄らはもっとやりたい放題やっていたのですから・・・
まぁ劉寵からしても皇帝になる野心があったことから、
輔漢大将軍を自称など気にするまでもない事だったとは思いますけどね。
本当にこのあたりを見る限り、
優秀な皇族群雄といった感じにしか見えません。
また黄巾の乱の勃発によって、加速するように天下が乱れに乱れ、
餓死する者達が後を絶ちませんでした。
そこで陳国相であった駱俊が、
自らの財産を投じて、
陳国に避難してきた民衆も含めて食糧を振る舞って救ったといいます。
各地が戦乱に襲われている中になって、
皇族である劉寵が弩兵を率いて守ってくれる陳国、
そして飢えに苦しむ自分達に食糧を分け与えてくれるわけですから、
民衆にとってはこれ以上頼れるところはなかったと言ってもいいほどでしょうね。
しかしそんな陳国に目を向けたのが袁術で、
食糧輸送を陳国に頼みますが、駱俊から普通に断られてしまいます。
駱俊からしてみれば、
「何様のつもりだ!」
ぐらいに思った可能性はあるでしょうね。
しかしこれに袁術は激怒し、刺客を送って駱俊だけでなく、
劉寵までも殺害してしまうのでした。
ちなみに食糧を依頼・殺害したタイミングは、
袁術が皇帝を名乗った後になります。
袁術からしてみれば、
自ら皇帝を名乗っているわけですから、
「漢王朝の皇族なんぞ、なんぼのもんじゃ!」
ぐらいの感覚だったのかもしれません。
劉寵・駱俊によって守られていた陳国でしたが、
二人が殺されてしまったことで、
飢えに苦しむ者達が跡を絶たなかったと伝わっています。
余談(劉寵の娘)
最後に余談的な話ですが、
劉寵には一人の娘がいたことがわかっています。
ある時に呂布の使者として、
秦宜禄という者が派遣されてきたことがありましたが、
袁術は秦宜禄を大変に気に入り、
自分の元に押し留めたことがありました。
その際に殺害した劉寵の娘を、
強制的に秦宜禄の妻としたという逸話が残っていたりしますね。
ちなみにですけど秦宜禄には、
杜氏という妻がいましたが、これが別れのきっかけに・・・
なぜなら徐州を治めていた呂布は、
曹操・劉備らによって捕らえられて処刑されてしまいます。
その際に「杜氏を嫁にしたい!」
と考えていたのが関羽でしたが、
杜氏に一目惚れした曹操が奪った形で側室に迎えています。
杜氏はその後に曹操との子供を産みますが、
杜氏と秦宜禄の息子である秦朗も曹操によって大事に育てられたのは、
秦宜禄にとっての唯一の救いだったでしょうね。
ちなみに劉寵の娘がその後どうなったのかは分かっていません。
なぜならその後の秦宜禄は間もなくして、
張飛によってあべこべに殺害されてしまったからですね。
もしかすると二人の間に新しい命が芽生えていたのかもしれませんし、
再婚した可能性も普通にあるかと思いますね。
ただ劉寵の娘も戦乱の世に、翻弄された女性だったことだけは間違いないでしょう。