「一龍の尾」管寧

管寧かんねいはかつて春秋時代に、

斉国の名宰相として名を残した管仲の末裔とされている人物ですが、

 

管寧は若い時に父親を亡くしています。

 

 

 

管寧は親の葬儀を自分の力だけでやり遂げたといいます。

 

 

母親の一族は裕福であったことから

「葬儀代」として援助しようとしたこともあったようですが、

 

管寧はその援助を断り、一人で葬儀を行う事に執着しています。

 

そして時が経ち、立派に成長した管寧ですが、

華歆・邴原と遊学して己を磨いたり、陳寔に師事したりもしています。

 

 

ちなみにですが「三人を一匹の龍(一龍)」と考え、

「華歆が龍頭、邴原が龍腹、管寧が龍尾」と例えられたといいます。

 

そして真相はともなく管寧は、

「華歆の性格を嫌った」という話しも残っていたりします。

管寧の先祖「管仲」&諸葛亮の逸話

上でも軽く触れましたが、管仲は、

桓王を助けて覇者に導いた斉国の名宰相ですが、

 

三国時代の諸葛亮が尊敬の念を抱いた人物でもありますね。

 

 

まだまだ司馬徽の門下生として諸葛亮が学んでいた頃の話ですが、

 

「私には管仲・楽毅に匹敵する程の才能がある」

と自らを評価していた話が残っていたりします。

 

 

「何を言っているんだ!?」

と多くの者達が諸葛亮を馬鹿にする中で、

 

「龐統や徐庶は諸葛亮を高く評価した」

という逸話があったり・・・

 

 

もともと諸葛亮の生まれた場所は徐州琅邪郡ですが、

この地は春秋時代でいう所の「斉国の生まれ」になるわけでして、

 

諸葛亮にとって「非常に身近な偉人」であったのかもしれませんね。

 

 

 

 

このことからも諸葛亮が身近な偉人に対して、

「尊敬の念」を抱いていたのは間違いないでしょう。

 

 

一方の楽毅についても軽く触れておくと、

 

「楽毅は燕国の将軍で、

斉国を滅亡寸前まで追い込んだ名将」なりますから、

 

同じく斉という土地柄に所縁のある偉人だったと言えますね。

諸葛亮が好んで口ずさんだ「梁父吟(梁甫吟)/詩」

遼東半島での生活

国内が黄巾の乱の勃発により大きく乱れると、

管寧は邴原・王烈と共に遼東半島へと難を逃れています。

 

 

公孫度は既に高い名声を獲得していた管寧らを歓迎し、

住居を提供してあげようとします。

 

しかし管寧らはその話を断り、

山中に庵を作って、のんびりと過ごすのでした。

 

 

ただ管寧を慕って戦火を免れた多くの避難民が、

次々と管寧の庵の近くに集まりだし、

 

「最終的に一つの集落ができてしまった」

とにわかには信じがたい話すら残っていたりしますね。

 

 

また「管寧の人となり」に触れた周りの者達は、

「争ったりすることもなくなった」といいます。

 

 

また管寧は公孫度へ配慮を怠る事もせず、

あくまで「学者としての振る舞いを徹底」しています。

 

これは公孫度に余計な警戒心を持たさぬように、

管寧なりの配慮であった事は言うまでもないでしょう。

曹操の招聘&曹丕の招聘

人材コレクターとして知られる曹操が司空に任じられると、

管寧を中央へ招聘しようと声をかけます。

 

しかし曹操からの言葉が、管寧に届くことはありませんでした。

 

 

なぜなら公孫度は既にこの世になく、

その跡を継いだ公孫康がその話を握りつぶしていたからですね。

 

 

 

曹操が中央を掌握し、次第に支配権を拡大させていくにつれ、

多くの者達が曹操に召集されたり、中央へと戻っていくわけですが、

 

管寧は遼東半島にその後も長らく居座り続けています。

 

 

曹操からの招聘話がもしも管寧の耳に聞こえていれば、

そのタイミングで戻っていた可能性はあるとは思いますが、

 

まだはっきりとした状況が分からない中で、

自らの判断のみで戻る事に躊躇していた可能性もあるでしょう。

 

 

他には単純に遼東半島での生活に愛着がわいてしまった可能性も・・・

 

 

 

しかしかつて共に遼東半島へと遊学していた華歆が、

曹丕の代に司徒にまで上り詰めており、

 

華歆がかつての遊学仲間であった管寧を推挙したことで、

曹丕から招聘を受けることとなります。

 

 

管寧はこれを機に辺境である遼東半島を去り、

中央へと戻ることを決意したわけですが、

 

公孫康の跡を継いだ公孫恭は、

「管寧との別れを惜しんだ」といいます。

 

 

管寧は公孫恭に見送られる中で海を渡っていったわけですが、

 

「無事に海を渡りきると、

これまで公孫度・公孫康・公孫恭と親子三代から頂いた物を全て返した」と伝わっています。

 

 

そもそもの話として、

渡り切った後に返却したというのに違和感を感じる所はありますが、

船を漕いで戻る者に託したりしたのでしょうかね!?

 

まぁそこを追及しても意味がないのでこれ以上触れませんが・・・

 

 

また管寧が遼東半島から立ち去る際に、

「公孫淵の野心は危うく、

 

公孫恭は引きずり降ろされることになるだけでなく、

この地に大きな災いをもたらすだろう」

といった公孫淵について語った逸話も残っていたりします。

 

 

 

また海を渡っていた最中に、

「暴風雨に遭遇した」という話もあるのですが、

 

「他の全ての船が沈没する中で、

管寧の乗った船のみが無事であった」

と偶然なのかそうでないのかは、完全に不明な訳の分からない話もあったりします。

 

 

そんなこんなで中央に戻ってきた管寧ですが、

曹丕から太中大夫に任命されています。

 

ただ管寧は普通に辞退しているわけですが・・・

 

 

曹丕の招聘に応じ、中央に戻ってきたまでは良かったけれど、

 

長い隠遁生活の中にあったことで、

今更的に仕える事を潔しとしなかっただけかもしれませんね。

曹叡の招聘&管寧の最期

曹叡の代になると、再び華歆の薦めもあり、

 

「光禄勲(九卿)」に任じ、

青州刺史に命じて州に招聘するように指示を出したといいます。

 

しかし当たり前に管寧は辞退していますが・・・

 

 

 

それからしばらく時が経過した正始二年(241年)に、

 

今度は陶丘一や王基の薦めもあって

「管寧の元へと迎えをやった」といいます。

 

実際にはこの二人だけでなく、

衛尉の立場であった孟観や侍中の立場であった孫邕も強く薦めていますね。

 

 

しかし迎えが管寧の元に到着した頃には、

管寧は老衰の為に既に亡くなっていたのでした。

「世説新語」に記載が残る華歆と管寧の逸話

冒頭でも少し述べましたが、

管寧と共に「一匹の龍」に例えられた華歆・邴原の三名ですが、

 

「管寧が華歆の性格を嫌ったという話がある」

と書いています。

 

 

そのことについて書かれているのが、

三国志時代より少し後の時代に書かれた「世説新語」になります。

 

これは劉義慶が編纂したものですが、

後漢末期から東晋までの人物の逸話が詰め込まれていたりします。

 

そこに書かれてある二人の逸話を折角なので最後に紹介したいと思います。

管寧、華歆共園中鋤菜見地有片金、

管揮鋤與瓦石不異、華捉而擲去之。

 

又嘗同席讀書、有乘軒冕過門者、

寧讀如故、歆廢書出看。

 

寧割席分坐曰、子非吾友也。

この漢文には次のように書かれています。

 

華歆と管寧が畑を耕していた際に、

土の中からお金の欠片が出てきたことがあったのですが、

 

管寧は石ころ同様に見向きもしなかったが、

華歆は一度その欠片を拾った後に遠くへ投げ捨てたのでした。

 

 

また二人が同じ長椅子に腰かけながら、

読書をしていたことがありました。

そんな折に立派な牛車が近くを通ったわけですが、

管寧は興味を示さずに読書を続けます。

 

しかし一方の華歆は読書をやめて、興味本位でその車を見に行ったのですが、

それに怒りを覚えた管寧が長椅子を二つに割ってしまったのでした。

 

そして次のように管寧は呟きます。

「私を貴方は友人ではなかったようだ!」と・・・

 

 

結局のところ、「世説新語」の二人の逸話が示す事は、

自分(管寧)同様に華歆が、

出世欲や物欲がないと思っていたけれど、

 

実は真逆の人間だと分かって失望してしまった」

いう逸話になりますね。