朱然(施然)

朱然は孫策を支えた朱治の甥にあたる人物で、

もともとの姓は「朱」ではなく、「施」でした。

 

それは朱治の姉が嫁いだ先が「施氏」であり、

その間に生まれた子が朱然で、もともとは施然という姓名だったのです。

 

 

しかし朱治に子供がいなかったことで、

 

朱治の養子となり、

「施然から朱然に変わった」という感じになります。

 

この時の朱然は、まだ幼さの残る13歳だったといいます。

 

 

その後に朱然は、孫策に召し出されることになるのですが、

孫策の弟である孫権と共に勉学に励んでいたことも多かったようです。

 

 

またそんな朱然の身長や性格に関する記録も残っており、

 

朱然の身長は七尺ほどしかなかったそうですが、

品行方正な性格で、質素な生活を送っていたといいます。

 

ちなみに当時は一尺=23センチですので、

七尺と言えば、約161センチということになりますね。

孫策の死×跡を継いだ孫権

孫策が刺客に襲われた傷がもとで亡くなると、

その跡を継いだのが孫権でした。

 

また朱然は会稽郡の余姚県令に任じられることになります。

 

朱然はその後に山陰県令になり、

それから間もなく五つの県が朱然の管轄下に置かれることとなります。

 

 

孫権は朱然と共に勉学に励んだ仲ということもあり、

幼馴染に近い感覚もあったのでしょう。

 

孫権は朱然を高く信頼していました。

 

 

そういうのもあってか、

丹陽郡から分割される形で臨川郡が誕生すると、

 

臨川太守に朱然が抜擢されることになると同時に

兵士二千人を授かるという兵権まで与えられています。

濡須口の戦い(周泰&朱然)

217年に曹操が濡須口へと進軍してくると、

この戦いには朱然も参加し、この時の功績から偏将軍に任じられます。

 

 

「濡須口の戦い」は孫権の勝利で幕を下ろしますが、

朱然と徐盛は周泰の指揮下におかれることになり。

 

「二人は納得できず不満に思っただけでなく、

周泰の命令にも背いていた」といった逸話が残っています。

 

そのことを耳にした孫権は、

わざわざ周泰の陣まで足を運んで宴席を設けた事がありました。

 

 

孫権はそこに朱然・徐盛・周泰を含み、

多くの者達を集めたのですが、

 

周泰の体にある無数の傷を皆の前で指さし、

「傷の一つ一つが私を命懸けで守った際の傷である。

 

 

そしてそのお陰で今私は生きているのだ!」

と話したといいます。

 

 

孫権の話を聞いた朱然と徐盛は、

二度と周泰の命令に背くことはなかったといいます。

関羽討伐戦

関羽が北上して樊城攻略に乗り出すと、

孫権は劉曹操と盟約を結んで関羽討伐に乗り出します。

 

 

まぁ劉備と孫権は、

荊州領地問題で対立していましたし、

 

関羽が孫権領から略奪を働いたりしたこともあったといいます。

 

 

またそれだけではな孫権の息子と関羽の娘の縁談を断ったりもしたようですし、

完全に関羽の失態からの点が多かったわけですが・・・

 

 

そして孫権が関羽の背後を襲った事で、

公安の傅士仁(士仁)、江陵の麋芳と相次いで降伏します。

 

 

一方の関羽も樊城で曹仁を追い詰めたり、于禁を捕らえたり、

龐徳を討ち取るなどの成果をあげてはいたものの、

 

最終的に麦城に追い込まれ、捕らえられて処刑されてしまいます。

 

 

 

朱然は関羽討伐戦では、

潘璋と共に別働隊を率いて関羽捕獲に貢献していますね。

 

ちなみに関羽を捕縛した人物は、

正史にもこの時しか記録が残っていない謎多き馬忠という人物になります。

 

 

 

関羽討伐を成し遂げ、荊州奪還に成功した孫権ですが、

荊州奪還に多大な貢献をした呂蒙がその後まもなくして病死してしまいます。

 

「三国志演義」に描かれている、

「関羽の祟り」というわけではありませんので悪しからず・・・

 

 

この時に呂蒙は亡くなる寸前に孫権に対して、

「朱然殿は胆が大きく座っており、

節操を守っている人物です。

 

私の亡き後は朱然殿を後見にするのが良いと思われます。」

と朱然を自身の後継者に推薦しています。

 

その言葉に従った孫権は朱然に仮節を与え、

江陵の守備を任せたといいます。

 

そして後に朱然が「江陵の守護神」になろうとは、

この時の誰も知る由はありませんでした。

「夷陵の戦い」への参加

「関羽の復讐戦」として劉備自ら荊州に攻め込んで来たことで、

夷陵の戦いが勃発します。

 

 

この時に朱然は陸遜と協力して蜀軍の防衛にあたっており、

別働隊を率いて蜀の先鋒隊を打ち破っていますね。

 

他にも劉備の退路を断ったりもしていたり・・・

 

 

 

多くの者達が劉備追撃を主張する中、

朱然は陸遜同様に魏を警戒したといいます。

 

結局陸遜や朱然の意見が尊重され、魏への備えを固めるわけですが、

間もなくしてれは的中することになったのでした。

 

 

ちなみにこの時の手柄により、

朱然は征北将軍に任じられ、永安侯に封じられることになります。

三方面の戦い(江陵防衛戦)

曹丕は勝利した勢いのまま、孫権が益州に攻め入んでいくと考えており、

盟約を一方的に破る形で、三方面から侵攻を開始しています。

 

朱然が任されていた江陵にも、

十万人以上の魏軍が攻め込んでくることとなります。

 

 

「歴戦の猛将」である張郃に孫盛が敗れると、

江陵城は孤立無援の状態に陥ってしまったのでした。

 

 

また朱然を襲ったのはそれだけではなく、

病が蔓延してしまったことで多くの兵士が病死してしまいます。

 

死ななかったものの、病気により戦えない者も当然におり、

実際に戦える兵は五千人程度だったといいます。

 

 

劣勢な状況ではありましたが、朱然は兵士を鼓舞して懸命に戦います。

 

 

 

しかし戦いが長引くにつれ、

城内の食糧も底をついたことから内通者まで出る始末でしたが、

 

その際にも朱然は内通者を突き止めて内通を未然に防いでもいます。

 

 

そして魏の猛攻は半年にわたって続き、総大将であった曹真をはじめ、

夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘といった者達がこの江陵戦に参加したわけですが、

 

最後まで朱然が守る江陵城を陥落させることはできませんでした。

 

 

朱然はこの江陵戦での功績により当陽侯に改封されただけでなく、

朱然の名は天下に鳴り響くことになったわけです。

石陽の戦い

226年に曹丕が崩御すると、

 

孫権は「好機!」と判断し、

自ら十万の兵を率いて江夏の石陽城に攻め込みます。

 

 

しかし文聘の「空城の計」に敗れ、

 

荀禹が狼煙を上げて援軍が来ているように見せかけたことで、

魏の援軍を疑った孫権は退却を開始したのでした。

 

この時に文聘は追撃してしんがりの部隊だった潘璋を打ち破るも、

朱然の登場により食い止められていますね。

 

 

 

229年に朱然はこれまでの功績を大きく評価され、

車騎将軍・右護軍・兗州牧に任命されています。

 

 

また周瑜の唯一の残された息子である周胤が流刑になっていた際には、

 

歩騭・諸葛瑾・全琮らと共に朱然が

「かつての周瑜の功績から周胤を赦免」するように孫権に進言したようで、

 

孫権はその言葉を聞き入れて周胤を流刑先から呼び戻そうとしたといいます。

 

しかし許されたのも空しく、既に周胤は病死した後だったとか・・・

「空城の計」の実践者は趙雲・文聘の二人!?

樊城攻略戦(芍陂の役)

241年に孫権が魏の領地に攻め込みますが、

その時に朱然も樊城に攻め込んでいます。

 

朱然は呂拠や朱異に命じて、樊城の外郭の破壊に成功するものの、

樊城を陥落させるまでには至りませんでした。

 

 

朱然は一ヶ月以上に渡って樊城を包囲していましたが、

その後に包囲を解いて撤退しています。

 

朱然が撤退した理由と言われているのは、

「皇太子の孫登が病死したからだった」といいます。

 

 

しかしこのタイミングで孫登が病死していなければ、

樊城を朱然が陥落させていた可能性は普通にあったと思われます。

 

 

ただ魏も司馬懿を援軍として樊城へ派遣していたとされているので、

そう簡単な話ではなかったかもしれませんが・・・

 

 

そう考えた場合は、朱然が撤退したタイミングは、

 

「これ以上ないタイミングでの撤退だった」

とも言えるかと思います。

 

 

 

そして242年に朱然は柤中へ攻め込んだ時の話ですが、

 

朱然が自軍を分散させているところを、

魏の蒲忠・胡質に襲われて危機に陥ってしまいます。

 

しかし朱然は慌てずたったの八百人だけで、

これを退けたといいます。

 

 

ちなみにこれは「朱然伝」に記載が残る内容ですが、

魏志「明帝紀」では237年の出来事だと記載されていますね。

 

 

 

そして孫登が亡くなった事で発生した後継者争いが「二宮の変」ですが、

呉の重臣が孫和と孫覇のどちらかに分かれて支持することになります。

 

 

この時に朱然がどちらを指示していたかは伝わっていませんが、

あくまで想像ではありますが孫和を指示していた可能性が高いと思います。

 

 

既に皇太子に任じられていたのは孫和ですし、

年齢的にも孫和の方が年上でした。

 

「その中で国を乱すような選択はしない」と思いますし、

何より朱然の息子である朱績が孫和を支持していた事実もありますので、

 

それらの点からも孫和を支持していたと考える方が自然だったりします。

「孫権殺害計画」の報復として

朱然の最期の活躍となるのが、

再びの侵攻となる柤中侵攻であり、246年の出来事でした。

 

 

朱然が再び柤中に攻め込んだ理由は、

 

「投降者の馬茂による孫権殺害計画への報復」

だったといいます。

 

 

朱然は孫権に上奏してまで柤中へと攻め込んだわけですが、

曹爽に対して大勝利を収めています。

 

 

ただそんな中で李興に退路を絶たれてしまうのですが、

 

朱然は冷静に状況分析し、

夜襲により李興を撃ち破ったりもしていますね。

 

 

孫権は朱然が万が一にも失敗したときのために、

朱然の上奏文は伏せていたといいます。

 

 

孫権がそういう対応をしたのは明白で、

 

朱然が戦いに敗れるようなことがあっても、

それによって朱然を罰することをしたくなかったからですね。

 

 

しかし孫権のそんな心配をよそに朱然は大勝利を収めたわけですから、

この時の孫権の喜びようは大変なものだったといいます。

 

そして朱然は左大司馬・右軍師に任じられています。

朱然の最期

呉を長く支えてきた重臣が次々に亡くなっていくわけですが、

新たに呉を支える息子達(二世)が台頭してきますが、

 

「次世代の者達のまとめ役」を任されたのが朱然でした。

 

 

しかし朱然も既に高齢になっていたこともあって、

体調を大きく崩してしまいますが、

 

そんな中でも江陵の守りを怠ることはなく、

新たな城壁を築いたりと、最後の最後まで職務を全うしています。

 

 

そんな朱然に孫権は医者を遣わしたり、

贈り物を届けたりと気にしていたといたようですが、

 

病状が回復に向かう事はなく、朱然は亡くなってしまうのでした。

 

 

孫権と朱然は若かりし時に共に勉学に励んだ仲でもあり、

孫権にとっても君臣の関係以上の感情があったのが朱然であったのは間違いないでしょう。

 

そんな朱然に対して陳寿は、

「朱桓と並んで勇烈な将軍であった」と評価しています。

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)