劉璋時代の黄権(こうけん)

最初、黄権は劉璋に仕えた人物で、

劉璋が漢中で勢力を保っていた張魯に対抗するために、

劉備を荊州より呼び寄せ、力を借りようとしました。

 

その時黄権は、その危険性を劉璋に説き、

「劉備を一武将として扱えば不満を抱くでしょうし、

賓客として劉備を招待すれば、益州という国に2人の君主がいることになってしまいます。

もし益州の地で劉備の地盤ができてしまえば、国を乗っ取られますよ!」

といって、劉備を呼ぶことに口を大きくして反対します。

 

しかし劉璋はこの進言を無視し、逆に黄権は左遷されてしまいます。

 

そして劉璋は劉備を迎えるわけですが、

結果的に益州は劉備に乗っ取られてしまいます。

 

劉備との戦いが始まり、黄権は周りの城の太守が降伏していく中、

黄権は最後の最後まで劉備に抵抗します。

 

その後劉璋が劉備に降伏した事を知ると、

黄権も降伏し、劉備に従います。

劉備時代の黄権

劉備に仕える事になった黄権ですが、

曹操が漢中の張魯を攻めた際に、次のように助言しました。

「もし漢中を曹操に奪われるようなことになれば、

益州全体を失う事になるでしょう。それだけ大事な場所なのです。

絶対に曹操に渡してはいけません」

 

この意見を聞き入れた劉備は、張魯の救援に向かわせますが、

時すでに遅く、張魯は曹操に降伏してしまいます。

 

219年、劉備は夏侯淵らが守る漢中を攻め、漢中を奪うわけですが、

黄権が以前説いた漢中の重要性を意識しての行動でした。

 

ちなみに法正が作戦を考え、黄忠が夏侯淵を討ち取り、

この二人がどうしても主役のように思ってる方も多いかもしれませんが、

 

漢中攻略戦の骨組みを考えたのは黄権であり、

法正はそれに肉付けして作戦を考えたにすぎません。

 

そういった意味でも漢中を奪えた一番の功労者は、

法正でも黄忠でもなく、黄権といっても過言ではないです。

夷陵の戦いで進退窮まった黄権

 

関羽が呉の陸遜に討たれ、

呉へ恨みを晴らすため諸葛亮らの反対を押し切って出陣しますが、

その時、黄権は劉備に従って東征しています。

 

この際黄権は劉備に対して、

「長江の流れに乗って呉へ攻め込むのは簡単ですが、

もし敗北した際、退却するのは非常に困難になります。

 

だから自分が先陣を務めますので、劉備様は後軍としてお越しください」

と言いますが、劉備は黄権の意見をはねのけ、自ら戦陣となって呉へ攻め込みます。

そして黄権を魏の守りとして後方を任せます。

 

この夷陵の戦いは、陸遜の火計により、

劉備軍の大惨敗で決着し、劉備は命からがら白帝城へ逃れます。

 

 

しかし、黄権は劉備が負けた事で、

魏と呉に挟まれる形になり、逃げ場を失ってしまいます。

 

その時黄権は、「討死するのは簡単だけど、

私に従っている兵士達を無駄死にさせることはできない。

 

だが呉へ降伏する事だけはありえない。降伏するなら魏へ降伏する」

と部下を思い、魏の曹丕に降伏します。

黄権降伏後の劉備・黄権の逸話①

黄権が魏へ降伏した後、蜀の法律に従って、

黄権の妻子を処罰すべきだという意見が多く出てきます。

 

しかし劉備はそれらの意見を一蹴して言います。

「黄権は何も裏切っていない。

逆に私自身が黄権を裏切ってしまった」

 

そしてこれまでと変わらず、黄権の妻子を厚遇したそうです。

黄権降伏後の劉備・黄権の逸話②

ある時、曹丕が黄権に対して、

「君が私に降伏したのは、もしかして漢の陳平・韓信を真似たものなのか?」

と問いかけます。

 

ちなみに陳平と韓信という二人の人物は、最初項羽に仕えていましたが、

自分達の考えを聞いてもらえず、才能を発揮できずにいました。

 

そこで周りの意見によく耳を貸していた劉邦に仕える事を決め、

劉邦が天下統一する為に、才能を存分に発揮して尽力した人達です。

 

 

つまり曹丕は夷陵の戦いで黄権の意見を聞かず、

大惨敗を喫してしまった劉備を項羽と被らせて、遠回しに馬鹿にしたわけです。

 

問われた黄権は言葉を返します。

「私は劉備様から大変な厚遇を受けていました。

私が魏に降ったのは、単純に自分の命欲しさに降伏しただけで、

そんな過去の大人物を真似したわけではありません。」

 

自分自身を貶め、旧主であった劉備をきちんと立て、

降伏後も劉備から受けた恩義を忘れない黄権の回答を聞いた曹丕は、

黄権を大変気に入り、鎮南将軍・育陽侯・侍中に任命しています。

黄権降伏後の劉備・黄権の逸話③

魏へ降伏してからの黄権に対して、

「黄権の家族は既に処刑されてしまってる」と言う者もいたが、

 

黄権は劉備という人物を心から信頼し、

「そういうことは絶対にありない」といって生涯信じる事はありませんでした。

 

また夷陵の戦いの翌年に、劉備はこの世を去りますが、

この時曹丕の元へ多くの家臣達が祝いの言葉を述べにきていました。

しかし黄権は祝賀を述べることはありませんでした。

 

黄権が祝賀を述べに来ない理由を想像できた曹丕ですが、

意地悪を含めた意味で何度も祝賀を述べにくるように黄権の元へ使者を送ります。

しかし最後まで祝賀を述べに行く事はありませんでした。

 

劉備という旧主から受けた恩義を忘れなかった黄権は、

魏の中にいて、逆に多くの人達に信頼されます。

黄権を高く評価した司馬懿

ある時に司馬懿が黄権に対して、

「蜀には君ほどの人物はどれぐらいいるのですか?」

と黄権を高く評価するあまりに尋ねた事がありました。

 

黄権は司馬懿の問いに対して、。

「司馬懿殿が私の事をそこまで高く評価して頂いてるとは思いもしませんでした」

と笑いながら返答します。

 

そして司馬懿が宿敵でもあった諸葛亮に対して、

黄権の事を記載した手紙を送った事があるのですが、

 

その手紙の中には、

「黄権殿は立派な人物で、いつも貴方の事をを褒め称えています」

との一文が添えてありました。

 

曹丕と交わした時の曹丕への返答の時もそうですが、

以前お世話になった人達へのリスペクトを忘れない姿勢は、

魏にあって黄権の評価を更に高める結果になっていったのです。

黄権の評価

三国志正史を記載した陳寿は、

度量が非常に広く、思慮深い人物であったと述べています。

 

また楊戯が記載した「季漢輔臣賛」には、

黄権の考えは鋭く的を得ていて、策略を持って敵を追い払い、

立派な人物であると評価しています。

 

またそれ以外にも黄権について記載されているものは複数ありますが、

どれをとっても黄権を高く評価するものが多く、

黄権がそれだけ能力的にも人柄的にも優れていたのでしょうね。

 

仕えた君主の事を常に第一に考え、優れた先見の明で助言し、

どんな状況下でもその君主を立てて悪く言わない。

 

また過去に受けた恩義を忘れず、筋の通った生き方をした黄権は、

劉備にも曹丕にも重用され、信頼されたのも納得の話ですね。

 

 

よく法正がもう少し長く生きていれば・・・・

龐統がもう少し長く生きていれば・・・・

 

なんてよく言われる事ですが、

私は黄権がもっと蜀で意見を取り上げられて活躍できていれば・・・

また蜀にとって違った未来があったかもと思わざるをえません。

 

それだけの評価に足る人物だと私は思ってます。

そして三国志の世界でも黄権は、私が好きな人物の一人です。