「大将軍」に任じられた張勲

張勲が登場するのは、

袁術が曹操に敗れた際になり、

 

袁術が敗残兵をまとめて九江に逃れたタイミングになります。

 

 

袁術は揚州刺史であった陳温を殺害して新たな地盤を築くと、

ここで張勲は橋蕤と共に取り立てられることとなります。

 

 

そしてまだ皇帝も自称していなかった頃の袁術ですが、

何故か「二人を大将軍に任じた」と記録には残っています。

 

 

個人的には大将に任じたの間違いではないかと思ったりもしますが・・・

 

そうでなければ自称任命とはいえ、

立場的には袁術より上になってしまいますしね。

 

まぁ個人的には袁術軍の中心人物であった程度の認識で良いかなと思ってます。

袁術VS呂布

張勲は当時袁術傘下にいた孫策の才能を高く評価したといいます。

 

これは張勲だけでなく、橋蕤にも言える事ですが、

共に孫策と誼を通じていたといいます。

 

 

袁術は自らの息子と呂布の娘を結婚させて関係を結ぼうとしますが、

陳珪・陳登親子に邪魔をされる形で、それが実現することはありませんでした。

 

 

そして袁術が皇帝を自称すると、袁術と呂布との間に完全に亀裂が入ってしまい、

袁術は呂布を討伐すべく徐州へと兵を差し向けます。

 

袁術は張勲だけでなく、橋蕤・韓暹・楊奉らと共に呂布を攻撃させ、

その軍勢は数万人にものぼったと言われています。

 

 

ちなみに数万人とはかなりアバウトな感じで書かれてありますが、

 

以前に紀霊が劉備を攻めた際の兵力が三万人程度でしたので、

その時と同じく三万人程度だったのかなと私は思います。

策士陳珪

張勲・橋蕤・韓暹・楊奉らが攻め込んできた時のの呂布の軍勢は、

僅かに三千人程度しかいませんでしたが、

 

陳珪の計略によって、

韓暹や楊奉を寝返らせる事に成功しています。

 

 

これにより韓暹と楊奉の二人は戦いが始まると同時に寝返った事で、

袁術軍は大混乱を起こして敗走・・・

 

 

 

ちなみに韓暹という人物ですが、もともとは白波賊の頭領でした。

 

後に長安から脱出した献帝に助力したことで、

大将軍にも任じられた事がある経歴の持ち主です。

 

 

張勲に橋蕤に韓暹と大将軍に任じられた記録がある人物ばかり登場しており、

大将軍の威厳が失墜してる感じになってますが、

 

張勲や橋蕤と違って、

韓暹は献帝より大将軍に任じられた人物という点では全然違いますね。

白波賊の頭領から大将軍にまで出世した韓暹

袁術の滅亡と共に・・・

食糧確保ができなくなった袁術は、

 

陳王の劉寵に食糧を求めますが、

袁術の悪政によって陳国にも悪影響を及ぼされていたことから、

 

劉寵に仕えていた陳国相の駱俊は、袁術からの依頼を普通に断ってしまいます。

 

 

しかしこれに逆ギレしたのが袁術で、

陳国に攻め入って駱俊を殺害しただけでなく、

 

劉寵まで殺害して陳国を滅ぼしてしまったのでした。

 

 

ちなみに劉寵は、

後漢の二代皇帝明帝(劉荘)の子である劉羨から数えて、

六代目の陳王になりますので、名門出身の皇族になるんですよね。

劉寵 -数千人の弩兵隊を率いた皇族群雄(明帝末裔)-

 

 

 

しかし曹操が袁術に対して討伐軍を編成すると、

袁術は曹操を恐れて逃亡してしまいます。

 

残された張勲は、橋蕤・李豊・梁綱・楽就らと協力して防衛にあたるものの、

曹操軍に惨敗を喫してしまいます。

 

 

この戦いで橋蕤・李豊・梁綱・楽就は討死し、

そして残された張勲ですが、かろうじて戦線を離脱することに成功しました。

 

 

しかし袁術が亡くなってしまったことで途方に暮れた張勲は、

かつて誼があった孫策を頼って落ち延びようとしますが、

 

かつて共に袁術に仕えていた劉勲に捕らえられて殺害されてしまうのでした。

 

 

最後に余談ですが、張勲は「三国志演義」にも登場し、

呂布との戦いで大将軍として二十万の兵を率いるも、惨敗を喫してしまっています。