劉繇(正礼)の出生
劉繇字正禮、東萊牟平人也。
齊孝王少子封牟平侯、子孫家焉。
繇伯父寵、為漢太尉。
繇兄岱、字公山、歴位侍中、兗州刺史。
劉繇は字を正礼といい、劉輿の息子であり、
青州東萊郡牟平県の出身となります
また伯父の劉寵は漢王朝の大尉を歴任した人物でもあったりします。
※陳王であった劉寵とはまったくの別人です。
このことからも分かるとは思いますが、
漢王朝を作った劉邦の血筋を引いている末裔の一人でもあり、
実兄には兗州刺史であった劉岱がいたりします。
ちなみに劉岱は青州黄巾賊の侵攻によって討死しており、
曹操飛躍(兗州牧獲得&青州兵獲得)のきっかけを与えた人物でもありますね。
そして劉繇についてのことは「劉繇伝」として、
「呉志」の第四巻に太史慈伝と士燮伝と共に記載されています。
とりあえずメンバーから見ても想像できますが、
群雄的な立ち位置の人物が収められている巻ですね。
「劉繇伝」には、劉繇が十九歳の時に、
盗賊に捕らえらた従父の劉韙を救い出した逸話が記載されています。
その話が広がると、それから間もなく考廉に推挙されて郎中となり、
梁国下邑県(豫洲)の県令に任じられています。
しかし当時の梁国相が宗族であった劉繇を利用しようとした為に、
それに嫌気がさして官を辞して去ったといいます。
その後に青州より招かれると、済南国の行政監察にあたっています。
ただこの時の済南国相であった人物は、
中常侍の息子で、賄賂を好み、法をないがしろにしていました。
劉繇はその現状が許せず、上奏した上で済南国相を罷免に追い込んでいます。
揚州刺史に任じらた劉繇
青州平原国の陶丘洪は、青州刺史に対して劉繇を茂才に推挙しています。
ただ前年に既に劉繇の兄である劉岱を推挙していた事もあり、
「何故に続けて兄弟を私に推挙するのか!?」
と刺史から尋ねられたところ、
これに対して陶丘洪は、
「二人ともに優れた人物であるのですから、
良い事ではありませんか。」
と言葉を返した逸話が残っています。
これらのことからも若かりし頃の劉繇が、
正義心が強く、非常に優れた人物であったことがうかがいしれますね。
そして丁度この頃に司空の掾(属官)として招かれていますが、
劉繇はこの誘いを普通に辞退し、戦乱を避けて江南に避難しています。
この時に劉繇は詔勅によって揚州刺史に任じられ、曲阿を本拠地としたのでした。
本来であれば、揚州の寿春を本拠地とする予定でしたが、
袁術の支配下となっていた為にそれを避けた形で、曲阿を本拠地としているのは余談です。
袁術との対立&揚州牧への任命
この時に孫策の一族であった呉景(孫策の叔父)・孫賁(孫策の従兄弟)の助けもあり、
無事に曲阿に落ち着くことができたわけですが、
袁術が領土拡大を企てると、劉繇は袁術側の立場であった呉景・孫賁らを追い出し、
袁術と対立を深めていく事となったのでした。
もともと漢王朝の宗族であった劉繇からしてみれば、
袁術の勝手な振る舞いに対して、
腹立たしい気持ちを持っていたであろうことは言うまでもないでしょう。
そんな劉繇の態度に納得できなかった袁術は、
独自に新たな揚州刺史を任命し、呉景・孫賁に命じて劉繇を攻めさせるも、
袁術は一年経っても劉繇を破る事ができませんでした。
そして長らく荒れていた揚州で頑張ってくれていた劉繇を後押しする形で、
朝廷は劉繇に揚州牧に任じ、あわせて振武将軍を与えています。
これにより劉繇は、数万の兵力を擁する勢力となっていくのでした。
ちなみに軽く補足を入れておきますが、
州刺史と州牧は似ているようで全然に違っていたりします。
州刺史は軍事権が認められておらず、
そこの州に属する郡(太守)に軍事的命令を出す事ができないのに対して、
州牧は軍事権が認められている事で、
そこに属する郡の太守に軍事的命令を出す事ができるわけですね。
その分かりやすい例が曹操でしょう。
かつて青州黄巾賊が兗州へと攻め込んだ際に、劉繇の兄であった劉岱は兗州刺史の立場であり、
兗州各地の太守に命令を出せなかった事で討死してしまっています。
この際に兗州牧として迎えられたのが曹操でした。
曹操は青州黄巾賊の撃退に成功し、曹操が飛躍するきっかけとなったのですから・・・
孫策の出陣&劉繇の敗北&劉繇の最期
興平二年(195年)になり、
孫堅亡き後に袁術の元にいた孫策が、伯父である呉景を助ける目的で出陣してくると、
牛渚を守る張英・樊能が打ち破られた事で大敗を喫してしまうのでした。
またそれだけでなく、この戦いの中で孫策は矢傷をうけるわけですが、
孫策は自分自身が怪我をした事を利用し、
「孫策が矢傷を負って亡くなった」
という嘘の情報が流したといいます。
その情報にまんまと踊らされた笮融が敗北を喫し、
薛礼の軍勢も崩壊してしまうのでした。
ここにいたって劉繇・笮融・薛礼らは、豫章に逃れていくわけですが、
まず劉繇は笮融を派遣したようですね。
ただこの時の豫章太守は、
一つの太守の座に「二人の太守」任じられているという状況でした。
まず諸葛玄を豫洲刺史に任じたは野心深き劉表であり、
一方で朝廷側は、朱晧を豫洲太守に任じて送り込んでいました。
これにより双方が争う事になってしまっていたわけですが、
朝廷から朱晧を援護するように命じられた劉繇が朱晧を助けた事で、
諸葛玄が討ち取られて、朱晧が太守の座についたのでした。
しかし笮融はそんな朱晧を殺害してしまったばかりか、
共に孫策と戦った薛礼までも殺害して我が物顔に・・・
これに怒りを覚えた劉繇は笮融と争う事になるわけですが、
劉繇は苦戦こそするものの、
最終的に笮融に勝利を掴むことに成功しています。
ただそれから間もなくして劉繇は病死してしまう事に・・・
四十二歳だったといいます。
ちなみに諸葛亮の作であるかは大きな疑いが残っている「後出師表」に、
王朗と共に劉繇が孫策に敗れた人物として、
批判されていたりするのは余談です。
「後出師表」は、
「蜀志」諸葛亮伝に裴松之が注釈を加えた内容ですが、
もともと張儼が著した「黙記」に残されていた内容ですね。
諸葛玄VS朱晧に対する別説
「呉志」劉繇伝や「献帝春秋」に記載されている豫章太守は、
上記のような流れであったわけですが、
「蜀志」諸葛亮伝には違った経緯が記載されています。
※諸葛亮の叔父=諸葛玄
從父玄為袁術所署豫章太守、玄將亮及亮弟均之官。
會漢朝更選朱晧代玄。
玄素與荊州牧劉表有舊、往依之。
一つの太守の座に「二人の太守」任じられたというのは同じですが、
劉表ではなく、袁術に任じられた形で豫章太守についたのが諸葛玄であり、
その後に朝廷から正式に派遣された朱晧を新たに太守に任じたことで、
板挟みにあった諸葛玄は、劉表を頼って荊州にへの逃れています。
つまり劉繇伝にあるような争いをして、
諸葛玄が討ち取られたような記載がないわけです。
ただこの直後に諸葛玄が没しているというふうに付け加えられていますが・・・
どちらにしても笮融が豫洲太守であった朱晧を殺害した事は変わりませんし、
そんな笮融に対して劉繇が勝利を収めたという事実も変わりませんね。