公孫淵(燕王/遼東公孫氏)

魏(曹叡)と呉(孫権)を相手に、

二股外交の綱渡りをした人物と言えば、

叔父である公孫恭から遼東太守の座を奪い取った公孫淵があげられますが、

 

燕王を自称したりとやりたい放題をやった事で、

最終的に司馬懿によって滅ぼされた人物になりますね。

 

 

これによって公孫淵や公孫晃(公孫淵の実兄)の一族をはじめ、

公孫脩(公孫淵の息子)らも処刑されてしまう事になったのでした。

 

またそれだけにとどまらず、

遼東の成年男子であった七千人も処刑されており、

その首があまりにも高く積まれたことで、「京観」と呼ばれた逸話もあったりしますね。

 

 

ちなみに公孫淵によって遼東太守の座を奪われていた公孫恭ですが、

司馬懿によって幽閉されている所を発見されて、公孫淵の一族の中で罪を許されています。

 

ただその後に公孫恭が、どういう生涯を歩んだのかは記録に残っていません。

 

 

そして景初二年(238年)12月 に、

倭の卑弥呼が魏に朝貢した話は有名ですよね。

「魏志」倭人伝に記録が残る「親魏倭王」の刻印であったり・・・

 

ただ卑弥呼が魏に朝貢するまでは、

遼東半島の公孫氏(公孫度・公孫康・公孫恭・公孫淵)へと使者を送っていたであろうとも言われています。

二股外交の先に、独立国を夢見た公孫淵

遼東公孫氏の末裔である赤染氏(常世氏

遼東公孫氏(公孫淵)の末裔を称する者達が、

倭に渡ったのが赤染氏とされており、

 

赤染氏の者達が信奉した常世岐姫神社とこよきひめじんじゃ(八王子神社)」が、

大阪・埼玉・山形などに残っていたりします。

 

 

現在は常世岐姫神社として名前が定着こそしていますが、

もともとは八王子神社と呼ばれていました。

 

 

ちなみに遼東公孫氏を祖とする赤染氏ですが、河内国を中心に活躍していた一族であり、

 

壬申の乱の際には赤染徳足あかそめ の とこたりが、

大海人皇子(天武天皇)に味方した一族でもあったりもします。

 

 

そんな赤染氏についての事が、

菅野真道らによって797年に著された「続日本紀」にも記載が残されています。

・天平19年(747年)8月23日に、

「正六位上赤染造広足・赤染高麻呂ら九人に常世連とこよのむらじ(常世岐)の氏姓を賜る」

 

・天平勝宝2年(750年)9月1日に、

「正六位赤染造広足・赤染高麻呂ら二十四人に常世連とこよのむらじ(常世岐)の氏姓を賜る」

 

・宝亀8年(777年)4月14日に、

「右京の従六位上・赤染国持ら四人、河内国大県郡の正六位上・赤染人足ら十三人、

遠江国蓁原郡の外八位下・赤染長浜、因幡国八上郡の外従六位下・赤染帯縄ら十九人に常世連とこよのむらじ(常世岐)を賜う」

 

 

ちなみに「新撰姓氏録」なんですが、

畿内に住んでいた1182の氏(この時代は氏と姓は別物)についての記録が残されている記録であり、

 

大きく以下の三つに分類されています。

  • 皇別(335氏)
  • 神別(404氏)
  • 諸蕃(326氏)
  • 上記三つにも属さない氏(117氏)

 

「諸蕃」は渡来人の一族についてかかれてあるものなのですが、

 

ここに「常世連燕国王公孫淵之後也」と記されており、

「常世連は燕の国王であった公孫淵の末裔である」といった意味になります。

 

 

そんな常世岐姫神社ですが、

常世岐姫神社(大阪府八尾市神宮寺5-173)が本宮とされています。

卑弥呼は公孫氏の出生である!?

〈「晋書」四夷伝 倭人条〉

倭人条

其家舊以男子為主 

漢末倭人亂功伐不定 

乃立女子為王名曰卑彌呼 

宣帝之平公孫氏也 

其女王遣使至帯方朝見 

其後貢聘不絶 

及文帝作相又數至 

泰始初遣使重譯入貢

 

〈書き下し文〉

漢末、倭人みだれ攻伐して定まらず。すなはち女子を立てて王とす。

名をう。宣帝の公孫氏をたひらぐる

の女王、使いをはし、帶方たいはうに至り朝見す。の後貢聘こうへい絶えず。

泰始たいしの初め、使いを遣わえきを重ねて入貢す。

 

〈翻訳〉

後漢末に内乱が起き、倭人は互いに討伐しあって国が定まらなかった。

そこで女性を立てて王とした。名を卑彌呼という。

宣帝(司馬懿)が公孫氏を討ち滅ぼした事で、その女王が帯方郡に使者を派遣して朝見に至った。

その後も朝貢が絶えなかった。

泰始(265年〜274年)の初めごろ、使者を遣わし、通訳を挟んで入貢してきた。

名曰卑彌呼。

宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帯方朝見。

 

上記の中のこの部分が大事なわけですが、

「名をふ。宣帝の公孫氏をたひらぐる

の女王、使ひをはし、帶方たいはうに至り朝見す。

の後貢聘こうへい絶へず。」と書き下し、

 

「名を卑彌呼という。

宣帝(司馬懿)が公孫氏を討ち滅ぼしたことで、

その女王(卑弥呼)が帯方郡に使者を派遣して朝見に至った。」

と解釈される事が多いです。

 

 

ただこれは邪馬台国までの道のりを都合が良いように解釈される事が多いのと同様に、

これも都合が良いように書き下されているともいえます。

 

ここでは句読点(、。)をつけていますが、

基本的に漢文の状態では句読点なんて書かれてありません。

 

そこは前後の文脈から推測して、それぞれの判断で分かりやすいように句読点を挟むわけです。

 

ですので本来素直に読むのならば

「名を卑彌呼と曰う。

宣帝(司馬懿)の平した公孫氏なり。

その女王が帯方郡に使者を派遣して朝見に至った。」

と読むことができるわけです。

 

 

 

そしてこの場合はつまり、

「卑彌呼は宣帝(司馬懿)に滅ぼされた公孫氏である。」

とはっきりと言っているわけです。

 

 

他にも別視点からこれらの関係について書けることはあったりするわけですが、

ここではそこまで深堀りであったり推察する事は控えたいと思います。

 

私がここで言いたい事としては、

卑弥呼が公孫氏であった説が存在しているという点です。

 

 

ただ司馬懿によって滅ぼされた遼東公孫氏、

そして司馬懿の功績を大きく誇張する為に与えられた可能性が高い「親魏倭王」を考えると、

 

「卑弥呼が公孫氏であった」と考えると、

しっくりこない所があるのも事実でもあるわけですが・・・

 

 

他にも遼東公孫氏は中平六年(189年)に、

同郷であった董卓配下の徐栄によって公孫度が推挙された事で遼東太守となっていますので、

 

倭国大乱の時期などを考えると無理があったりもします。

  • 倭国大乱時期:147年~189年/桓帝・霊帝の治世(後漢書)
  • 倭国大乱時期:178年~184年/漢の霊帝の光和年間(梁書)

 

 

後は「晋書」が完成したのは648年であり、

房玄齢・李延寿によって書かれたものなんですが、

 

そもそも三国時代からあまりにも後で書かれたものでもあるわけですから、

どうしても信憑性も薄れるわけでして・・・

 

 

しかし現在も卑弥呼の墓すらも発見されておらず、

卑弥呼に関係する資料も限られている中であるからこそ、

 

頭を柔軟にして色々な可能性を探っていくのも大事だと思いますし、

それが歴史を探索する上で楽しい事・面白い事であるのも間違いありません。

「魏志倭人伝」から見た邪馬台国と卑弥呼