遼東太守にまで上り詰めた公孫度(升済)
公孫延の息子として誕生した公孫度ですが、
母親が誰なのかは今に伝わっていません。
ただ幼名は公孫度ではなく、公孫豹であり、
幽州遼東郡襄平県出身で、比較的に素性がしっかり伝わっている人物だと言えるでしょうね。
公孫度は父親である公孫延がある事件(事件名は不明)に関わっていた事で、
玄菟郡に移住して郡吏となっています。
その際に玄菟太守であった公孫琙と公孫延・公孫度の血縁関係は不明ですが、
公孫琙は息子である公孫豹を18歳で亡くしていた事もあり、
幼名や年齢までもが同じであった公孫度(公孫豹)を大変に可愛がり、
公孫度に師をつけて学問を学ばせ、妻を迎えさせるといった世話まで行ったといいます。
建寧二年(169年)に「有道の科」を推挙されると、尚書郎に任じらていますね。
その後に冀州刺史に昇進するも、悪い噂が流れた事で免職させられる事に・・・
中平六年(189年)になると、
董卓に仕えていた徐栄の推挙で遼東太守に任じられたのでした。
ちなみに徐栄は翌年・翌々年に曹操・孫堅を破った事がある人物として知られていますね。
「魏志」公孫度伝では、
「徐栄の出身が公孫度と同郡」と書いていますが、
徐栄は幽州玄菟郡ですし、
一方の公孫度は幽州遼東郡なので普通に違う郡だと思います。
もしかすると陳寿の記載ミスかもしれません。
それか辺境であった事もあり、地名の場所が多少あやふやであった可能性も否定できません。
実際に公孫度の出身である遼東郡襄平県の少し上が玄菟郡ですからね。
おそらく近所的な付き合いがあっても良い距離感であったた可能性は十分にあると思います。
そう推測した場合、徐栄の正確な出身地は、
幽州玄菟郡候城県もしくは幽州玄菟郡遼陽県のどちらかの可能性が高いでしょう。
軽んじた者達を次々と葬る
遼東太守になった公孫度ですが、
もともとは玄菟郡の郡吏出身であった事を人々が軽んじたようです。
例えば襄平県令の公孫昭が、
公孫度の息子である公孫康を低い役職である伍長に任じていたわけですが、
公孫度の着任後に公孫昭は捕らえれら、鞭打ちの末に殺害されています。
他にも公孫度に冷たい態度を取っていた田韶を処刑したりと・・・
このように公孫度に処刑されて滅亡した家が百を超える程だったといいます。
そして公孫度は国外にまで目を向けており、
東方は高句麗を攻め、西方は鳥丸を攻撃を仕掛けていますね。
「独立国」を夢見た公孫度
中央では大将軍である何進が宦官により殺害され、
その宦官もまた袁紹・袁術らによって殺害されまくったりと乱れに乱れた状態になっていました。
その中で董卓の専横政治が行われるようになっていくと、
初平元年(190年)からも分かりますが、
少帝(劉弁)が廃帝となり、献帝(劉協)が新たに擁立された年でもあります。
そして袁紹を盟主とする反董卓連合が結成されたり、
その中で洛陽が廃墟となったり・・・
この背景を伝え聞いた公孫度は、重臣の柳毅・陽儀に対して、
「漢王朝の命運は今にも尽きようとしている。
だからこそ貴方達と共に王になりたいものだ!」
と野望を露にしたといいます。
そして公孫度は、遼東郡を分割して遼西中遼郡を勝手に新設して太守を置き、
海を渡って東萊郡(青州)の諸県も支配下に入れて、勝手に営州刺史を置いたのでした。
また公孫度は遼東侯・平州牧を自ら称し、
父親である公孫延に建義侯の称号を追贈したばかりか、
漢の二祖である劉邦・光武帝の霊廟を建立することもしたのでした。
そして次には襄平城の南に壇(天を祭る為の土盛り)と墠(地を祭る為の平らな土地)を設て天地を祭ったり、
天子が行うとされる籍田の儀式や閲兵式も執り行ったようです。
他にも天子用の鸞車に乗ったり、天子用の旗を用いたり、
天子用の近衛兵である羽林騎に護衛されたりと、明かに漢王朝を無視した姿勢を取ったわけですね。
-野望半ばにて-
そんな公孫度ですが、建安九年(204年)に、
曹操から武威将軍に任ぜられたばかりか、永寧郷侯にも封じて懐柔策を取ったのでした。
建安九年(204年)といえば、曹操が鄴城を陥落させた時期であり、
冀州全体を支配下におく前提のタイミングで、
遼東半島の公孫度へと使者を寄こしたと見る方が自然だと思います。
ただ公孫度の普段からの野心を考えると納得できるようなものではなく、
「私は遼東の王である! 永寧郷侯などいらぬ!」と不満を述べると、
曹操から送られた永寧郷侯の印綬を武器庫にしまい込んだのでした。
ただこの年に公孫度自身も亡くなっていたりします。
ちなみに跡を継いだのは息子の公孫康が引き継ぐわけですが、
もしも公孫度が更に長生きしていれば、涼茂の進言によって一度は思いとどまった公孫度ですが、
どこかのタイミングで高い確率で独立国を作っていた気がしますね。
〈公孫度と涼茂の逸話〉
公孫度は涼茂や他の将軍達に向かって公孫度は涼茂や他の将軍達に向かって 「曹操殿は現在遠征に出ており、 鄴の防備が手薄になっていると聞いた。
私が今歩兵三万、騎兵一万人を率いて鄴へ攻めかかれば、 誰が防ぐことができようか!?」と問いかけたことがありました。
つまり曹操の留守を狙って、鄴を奪い取ろうとしたわけです。
将軍らは公孫度の考えに同意するも、これに対して涼茂は公孫度を強く諫めています。 「天下が大きく乱れ、国家は今にも転覆しようとしていますが、 そんな中で公孫度殿は、十万の軍勢を擁しているにも関わらず、静観しているだけでした。
しかし曹操殿が天下の危機に全力で立ち向かい、正義の兵を率いて賊を滅ぼしておられます。 その功績は高く、恩恵は広く、唯一無二の人物であります。
そして状況が少し落ち着いたからこそ、公孫度殿の罪を問われていないだけなのです。
もしそんな中で公孫度殿が兵を揚げて西に向かわれれば、必ず敗れることになるでしょう。 止めることは致しませんので、頑張ってくださいませ。」
これを聞いた公孫度は曹操と対決する事の愚かさに気づかされ、 涼茂の考えに同意して決起を踏みとどまったのでした。 |