泰山太守として大きな功績を残した涼茂

涼茂りょうぼう山陽郡昌邑県の出身であり、

若かりし頃から学問を非常に好んだ人物でした。

 

そしてそんな涼茂の評判を耳にしたのが曹操であり、

曹操は涼茂を司空掾しくうのえんとして招いています。

 

その後は侍御史を経て、泰山太守に任じられる事となります。

余談ですが、泰山郡は兗州にある郡になりますね。

 

 

ただ涼茂が泰山太守に任じられた頃の泰山郡は、

 

盗賊であったり、山賊であったりが好き勝手にやっていたこともあり、

治安が非常に悪化している時でもありました。

 

 

しかし涼茂が泰山太守として赴くと、盗賊・山賊は次第にいなくなり、

治安が非常に良くなったといいます。

 

 

そして「そんな泰山郡に住みたい」

各地より多くの民が流れてきたようで、

 

涼茂が泰山太守として赴任してから、僅か十カ月で千世帯を超える程でした。

涼茂と公孫度に纏わる逸話

涼茂は泰山太守としての功績を高く評価され、

朝鮮半島の北部に位置する辺境である楽浪郡の太守に任命されることとなります。

 

この地帯は中央から大変離れていた為、朝廷の支配がほとんど行き届いていませんでした。

そして楽浪郡を支配していたのは、実質的に公孫度だったと考えてよいと思います。

 

なぜそんな場所に曹操が涼茂を派遣したのか疑問でしかないですが・・・

 

 

もともと公孫度は、董卓政権時代に、

徐栄の推薦で遼東太守に任じられた事に始まりますが、

 

その後は息子の公孫康・公孫恭、そして孫の公孫淵と地盤が引き継がれていくわけですが、

つまり楽浪郡は遼東公孫氏の影響下にあった地域といえるでしょう。

 

 

そして実際に涼茂が遼東半島を通ろうとした際に、

公孫度は涼茂を引き留めて、楽浪郡へ行かせないように邪魔してきます。

 

しかし自らに仕えるように半ば脅迫されるも、涼茂が公孫度に屈服する事はなかったのですが、

どうにもならない現状に公孫度の下に止まる事を余儀なくされたのでした。

涼茂最大の見せ場(公孫度を諭す)

公孫度は涼茂や他の将軍達に向かって公孫度は涼茂や他の将軍達に向かって

「曹操殿は現在遠征に出ており、

鄴の防備が手薄になっていると聞いた。

 

私が今歩兵三万、騎兵一万人を率いて鄴へ攻めかかれば、

誰が防ぐことができようか!?」と問いかけたことがありました。

 

つまり曹操の留守を狙って、鄴を奪い取ろうとしたわけです。

 

 

将軍らは公孫度の考えに同意するも、これに対して涼茂は公孫度を強く諫めています。

「天下が大きく乱れ、

国家は今にも転覆しようとしていますが、

 

そんな中で公孫度殿は、

十万の軍勢を擁しているにも関わらず、静観しているだけでした。

 

 

しかし曹操殿が天下の危機に全力で立ち向かい、

正義の兵を率いて賊を滅ぼしておられます。

 

その功績は高く、恩恵は広く、唯一無二の人物であります。

 

 

そして状況が少し落ち着いたからこそ、

公孫度殿の罪を問われていないだけなのです。

 

 

もしそんな中で公孫度殿が兵を揚げて西に向かわれれば、

必ず敗れることになるでしょう。

 

止めることは致しませんので、頑張ってくださいませ。」

 

 

これを聞いた公孫度は曹操と対決する事の愚かさに気づかされ、

涼茂の考えに同意して決起を踏みとどまったのでした。

 

 

もしこ公孫度が反乱を起こしていれば、普通に曹操に滅ぼされていたと思いますし、

その最も最たる例が孫の公孫淵が魏に歯向かった事で滅亡したことでしょうね。

涼茂と公孫度の逸話に対しての矛盾点

これまで述べてきた涼茂についての記載ですが、

「三国志(「魏志」涼茂伝)」にも記録として残されている事ですが、

 

明らかな時代の矛盾がある事も含めて、その点にも触れておきたいと思います。

 

 

まず公孫度がこの世を去ったのが、建安九年(204年)になります。

息子である公孫康が遼東太守引き継いでいることからもそれは分かります。

 

ちなみに曹操が袁尚配下であった審配を倒して鄴を手に入れたのも、

公孫度が亡くなった建安九年(204年)と同じです。

 

そして曹操が柳城に遠征(袁煕・袁尚・蹋頓の討伐)したのは建安十二年(207年)のことであり、

既に公孫度は亡くなっています。

 

 

ちなみにこのことは三国志の研究も多くなされた時代に、

盧弼ろひつの著した「三国志集解」にも記載されている内容ですね。

 

 

この事から考えられることは、

曹操が鄴城攻略に成功して間もなく、公孫度が上記の話をしたとするならば、

完全に誤った情報を掴んでいての発言になったでしょう。

 

ただ袁家遺児(袁尚・袁煕など)も生存していますし、

さすがにまだ情勢は乱れている渦中であった事を考えると、さすがにありえないかなと思います。

 

 

もしかするとこの逸話は公孫度ではなく、

息子の公孫康の治世の頃だった可能性もあるかもしれません。

 

 

陳寿が「魏志」涼茂伝において、

涼茂と公孫度の逸話をわざわざ入れている事を考えると、

 

この逸話は実際にあったことだと私は思います。

 

 

ただ記載する上で伝え聞いた情報、もしくは陳寿が参考にした資料などで、

誤った情報を参考にした結果、こういう矛盾が発生したのではないかと・・・

 

その場合に考えられることとしては、

公孫度の台詞などを誤って報告、もしくは記録として残していた等(情報のズレ)ですかね。

 

 

基本的に個々から伝え聞いた情報が後の記録として残されるわけですから、

そういった事は可能性として普通にありえると思います。

最後まで活躍し続けた涼茂

涼茂が楽浪郡の任地に無事についたかどうかについては、

「魏志」涼茂伝に記載は残っていませんが、おそらくその後に任地に赴いたと考えるのが一般的でしょう。

 

とにもかくにもその後の涼茂は楽浪郡から呼び戻されたようで、

魏郡太守・甘陵国相・長史・左軍師と転任していっています。

 

 

ちなみに盧弼によると、涼茂が甘陵相に任じられたのは、

建安十一年(206年)より以前だと言っていますね。

 

また上の歴任の中での長史ですが、

建安十六年(211年)に、曹丕が五官中郎将となった際に任じられていますね。

 

「長史に涼茂・邴原・呉質が任じられた」

「魏略」に記載が残されているからです。

 

 

それだけではなく曹丕が太子となった際には、太子太傅に任命されています。

 

曹丕の「四友」は有名だったりしますが、

「英雄記」には曹丕の「八友」についての記録が残されているわけですが、

 

その中の一人として涼茂も数えられていますね。

 

ちなみに涼茂が属していた「八友」の他の人物については現在に伝わっていません。

 

〈曹丕の四友〉

  • 司馬懿
  • 陳羣
  • 呉質
  • 朱鑠

 

 

また建安十八年(213年)に、

曹操を魏公に推薦した「魏公國勧進奏(30名)」では、

涼茂は上から三番目に名を連ねており、

 

曹操が魏公に任じられて以降は、涼茂は尚書僕射しょうしゃぼくいに任じられ、

中尉奉常になり、在職中にこの世を去ったといいます。

 

〈魏公國勧進奏(三十名)のうちの上位十名の紹介〉

  1. 荀攸(中軍師・陵樹亭侯)
  2. 鍾繇(前軍師・東武亭侯)
  3. 涼茂(左軍師)
  4. 毛玠(右軍師)
  5. 劉勲(平虜将軍・華郷侯)
  6. 劉若(建武将軍・清苑亭侯)
  7. 夏侯惇(伏波将軍・高安侯)
  8. 王忠(揚武将軍・都亭侯)
  9. 劉展/鄧展(奮威将軍・楽郷侯)
  10. 鮮于輔(建忠将軍・昌郷亭侯)

 

 

そして最後に涼茂が亡くなった年ですが、

「涼茂が建安二十五年(220年/曹丕の「魏」建国前)には、既に亡くなっていた」

という以外は今に伝わっていません。

 

そんな涼茂を「三国志」著者である陳寿は、

袁渙・邴原・張範らは清廉であり、進退が道義に沿うものであった。

思うに貢禹こうう両龔りょうきょうに匹敵する人物であったといえよう。

 

また涼茂や国淵は彼らに次ぐ人物であった」と評価しています。

「魏公國勧進奏(魏公国勧進奏)三十名」について