公孫恭 -遼東公孫氏の三代目-
公孫恭は公孫度の息子であり、兄に公孫康がいます。
公孫度が遼東半島に地盤を築き、兄である公孫康が領土拡大を成し遂げ、
そんな中で地盤を引き継ぐことになったのが公孫恭になりますね。
公孫康が亡くなった当時、公孫晃・公孫淵という息子がいましたが、
幼すぎた為に公孫恭が後を継いだ形でした。
そして遼東太守となった公孫恭でしたが、黄初二年(221年)になると、
曹丕から車騎将軍に任じられ、仮節を与えられていますね。
曹仁が221年4月に、車騎将軍から大将軍へと出世していますので、
空いた車騎将軍の位を公孫恭に授けた形なのだと思います。
ちなみに公孫恭の後に車騎将軍に任じられたのは張郃であるのは完全に余談です。
またそれだけではなく、この時に公孫恭は平郭侯にも封じられています。
公孫度・公孫康同様に漢王朝・魏王朝に仕えた立場ではありましたが、
実際は独立勢力的な立場であったことは言うまでもないでしょう。
ただそのことについては曹丕も十二分に理解しており、
車騎将軍という高い官職を公孫恭に授けて厚遇したのだろうと推測できます。
公孫恭と管寧
「三人を一匹の龍(一龍)」として例えられた人物に、
華歆・邴原・管寧の三人がいます。
-華歆が龍頭、邴原が龍腹、管寧が龍尾-
その中の管寧は黄巾の乱の勃発時に混乱を避け、遼東半島へと移り住んで過ごしていました。
曹操は管寧の才能を高く評価し、呼び寄せようとしたのですが、
公孫康によってその話は握りつぶされており、管寧まで話が届く事はなかったのですが、
曹丕・公孫恭の時代になると、華歆の推挙もあって曹丕からの呼び出され、
管寧は中央へ戻る事を決断したのでした。
この際に公孫恭は、「管寧との別れを惜しんだ」と伝わっています。
また管寧が遼東半島から立ち去る際に、
「公孫淵の野心は危ういものであり、
良からぬ未来が訪れる事になるだろう」
と予期したという逸話も残されていたりします。
遼東太守の剥奪(公孫淵の台頭)
太和二年(228年)に、
公孫康の息子であった公孫淵が成人を迎えると、
大きな野心を剥き出し、公孫恭から遼東太守の座を奪い取ってしまったのでした。
まさに管寧が予期した通りの結果となったわけですね。
また公孫淵は公孫恭から遼東太守を奪った理由もきちんと正史に残されています。
公孫恭が勃起不全のような男性器の病気にかかってしまった事で、
子孫を残せなかったようで、それを理由に国を治める器ではないと判断されたとか・・・
国を治める上では、全く関係ない理由だとは思いますが、
当時強く影響を受けていた儒教的思想が根本にあったと言われています。
とにもかくにも、これによって公孫淵が遼東太守の座にのぼることとなります。
そしてこれを境に公孫恭の名は正史から消えてしまいます。
ただ「晋書」宣帝本紀には、
「公孫淵が司馬懿に滅ぼされて、一族皆殺しにされる中にあって、
幽閉させられていた公孫恭を発見した」という記録が残されています。
この中で公孫恭は救い出され、
長らく魏に忠義を尽くした功績から唯一処罰を免れたといいます。
ただ「晋書」の記載もこれを最後に途絶えており、
その後に公孫恭がどんな生涯を歩んだのかは分かっていません。
余談(公孫晃/公孫淵の実兄)
公孫晃の逸話は「魏略」の中に書かれてある話であり、
「魏志」公孫度伝の中にある公孫淵伝の注釈として加えられているものになります。
そこには公孫恭が遼東太守の座にあった当時、
魏への臣従の証として、公孫晃を人質として洛陽へと送っていました。
公孫恭亡き後は、実兄である公孫康の長男である公孫晃を跡継ぎと考えていたのでしょう。
だからこそ人質として送ったと考えるのが自然ですからね。
ただ公孫晃は弟である公孫淵の野心が尋常ではないことを感じていた事もあり、
公孫淵が公孫恭から遼東太守の座を奪った際に討伐するように、曹叡に対して上奏した事がありました。
しかし曹叡はその話を聞くことはなく、公孫淵の遼東太守の座を認めています。
おそらく父親であった曹丕から跡を継いだばかりであり、
蜀呉への対応を最優先にしていたのでしょう。
その中に会って遼東半島という辺境の土地への興味も薄かったのが一つの理由だと思います。
そして後に公孫淵が魏から完全に独立してしまうと、
曹叡は司馬懿に公孫淵討伐を命じており、あっさりと討伐に成功しています。
この際に洛陽にいた公孫晃も捕らえられてしまうのですが、
以前の公孫晃からの注意喚起を理由に曹叡は許そうとしたといいます。
しかし周りの者達の反対が凄まじく、公孫晃をはじめ妻子は処刑されてしまいます。
この事に関して三国志に注釈を加えた裴松之も同情していたりしますね。
また「魏志」高柔伝には、公孫晃の最期の様子が描かれています。
「獄中の中にて金屑の入った酒を飲み干して自害した」と・・・
ただ公孫晃が自害させられる前に、
高柔は曹叡に対して次のような発言をしたことが記録に残されています。
「公孫晃殿の以前の注意喚起が本当であるならば、
罪人の一族とはいえ助けるべきだと思います。
もしその話が私の聞き違いであれば、市場にて即刻処刑して然るべきです。
しかし進んで命を救う事をせず、
退いてその罪を明らかにしないのはいかがなものでしょうか!? 」
しかし悲しいかな、
高柔の訴えは曹叡に聞き届けられる事はなかったのでした。