杜預 -晋の名将-
「三国志に聞け(名言の誕生編)」23Pより画像引用
「破竹の勢い」は、現在では一般的に使われている言葉ではありますが、
もともとは三国時代の杜預の言葉が由来になります。
竹に縦の割れ目が入ると一気に割れてしまう事からも、
止めようとしても止められない程に勢いがあるといった意味で使われます。
「破竹の勢い」は正確に言うと、三国の一角である蜀漢が滅亡し、
蜀漢を滅ぼした魏もまた司馬炎に滅ぼされ、晋が建国された後の時期なので、
まさに三国志ではなく、正確には二国志(晋&呉)の時の言葉だと言えるでしょう。
そんな「破竹の勢い」についてですが、
「晋書」杜預伝に記載が残されていたりします。
今兵威已振。
譬如破竹、數節之後、皆迎刃而解。
無復著手処也。
今兵威已に振るう。
(今の我が軍の威勢は天を突くばかりである。)
譬えば竹を破るが如く、 数節の後、皆刃を迎えて解く。 (例えるなら、竹を割る時のような勢いであり、 刀で数節だけ割け目を入れれば、後は一気に裂けてしまうものである。)
復た手を著くる処無きなり。 (後は力を加える必要もないであろう≒簡単に呉を攻略できるであろう。) |
-撤退するかどうかの議論-
「三国志に聞け(名言の誕生編)」17Pより画像引用
そして杜預は馬に乗る事ができなかった事でも知られる将軍ですが、
司馬炎が呉を滅ぼすべく、
六方面から呉へと侵攻を開始した際に、一方面を任されたのが杜預でした。
- 杜預(とよ)に荊州軍を指揮させ、江陵より侵攻させる
- 王濬(おうしゅん)・唐彬(とうひん)に益州軍を指揮させ、長江を下り侵攻させる
- 司馬伷(しばちゅう)に徐州軍を指揮させ、涂中より侵攻させる
- 王渾(おうこん)・周浚(しゅうしゅん)に揚州軍を指揮させ、横江・牛渚から侵攻させる
- 王戎(おうじゅう)に豫洲軍を指揮させ、武昌より侵攻させる
- 胡奮(こふん)に荊州の一部の兵を率いて、夏口より侵攻させる
晋の軍勢が優勢ではあったものの、気候が暖かくなり、
長雨の季節になってきたことで、疫病が流行る事で撤退を促す意見が出てきます。
疫病は魏の土台を作り上げた曹操の時代から長らく、
大いに苦しめられてきたことからの経験則だったと言えるでしょう。
とにかく「疫病が大いに流行る可能性がある夏は避け、
冬に改めて攻めましょう」ということですね。
まぁ冬は冬で、当たり前に疫病も流行る事もあるので、
一概には言えないのが実情でもあるとは思いますが、
兎にも角にもその事により撤退するかどうかを検討したわけですね。
例えば冬場に長江流域で流行った可能性がある疫病の一つに、
チフス(発疹チフス・腸チフス等)があったりしますからね。
発疹チフスはシラミやダニにより感染するものであり、
戦争・貧困・飢餓など生活環境が悪い場合に爆発的に感染拡大をしていくことが多いです。
一方で腸チフスの病原体を持った人や動物の尿や便によって、
汚染された水や食べ物を体に取り入れる事で感染するものが腸チフスになります。
では逆に長江流域で夏場に流行った可能性が高い疫病はというと、
「住血吸虫病」があげられるでしょう。
この病気は寄生虫が体内に侵入する事で起きる病気であり、
皮膚から寄生虫が侵入した際にかゆみを伴い、
その後、発熱・下痢・咳・蕁麻疹・腹痛・悪寒などの症状を引き起こします。
これがひどくなると肝硬変・麻痺・血尿・血便などになることもあるようなので、
油断のできない感染症ということになります。
-破竹の勢い(破竹之勢)-
「三国志に聞け(名言の誕生編)」22Pより画像引用
疫病の危険性から一時撤退の意見が出てくる中で、
杜預は戦国時代の燕国の名将である楽毅を例に挙げ、
「兵の勢いは大きく、
例えるなら竹を割くのと同じである!」
と勢いそのままに呉を滅ぼすべきだと言葉に発したのが、杜預の「破竹の勢い」だったわけです。
ちなみに楽毅という人物は、
諸葛亮が尊敬した人物の一人としても知られていますね。
そしてそのまま「杜預が呉の孫晧を降した」かというと、
益州から長江の流れに乗って一気に下ってきた王濬が、
呉の首都である建業に迫り、呉の孫晧を降伏させていますね。
「破竹の勢い」に似たような言葉は他にも沢山あり、
「飛ぶ鳥を落とす勢い」「怒涛の如し」「日の出の勢い」
を使われる方もいるかもしれませんね。