隠棲の道を選択した杜微(国輔/とび)

杜微については「蜀志」杜微伝が立てられており、

そこには杜微の字が「国輔」と記載はされていますが、

 

楊戯が著した「季漢輔臣賛」には、

「国輔」とは逆の「輔国」と記載されていたりします。

 

 

まぁこれが意味する所として、

陳寿が楊戯のどちらかが間違って記載しているという事になりますね。

 

ちなみに楊戯も「蜀志」楊戯伝が立てられている人物で、

「季漢輔臣賛」は蜀漢の人物を知る上で貴重な資料となってますね。

 

 

杜微は益州梓潼郡涪県の人物ですが、

若い時には同じく益州出身であった任安じんあんのもとで学んだといいます。

 

その後に劉焉の跡を継いだ劉璋に招聘されて従事となっていますが、病気の為に職を辞しています。

 

そんな折に劉備が劉璋を降し、新たに益州を統治しますが、

杜微は「耳が聞こえない」として出仕することはありませんでした。

諸葛亮から求められた杜微(一度目の勧誘)

劉備が夷陵で大敗し、白帝城で没すると、

劉禅は諸葛亮を武郷侯に封じ、丞相府を開府させたわけですが、

 

建興二年(224年)になると、益州牧も兼任する事となります。

 

蜀漢は益州一州だけになりますので、

この時に諸葛亮が政務全般を担ったという事になりますね。

 

 

諸葛亮は右曹掾として蒋琬を、左曹掾として李邵を、

 

別駕従事として秦宓を、功曹として五梁を、

そして主簿として杜微を指名して新体制を整えました。

 

ただ杜微は諸葛亮から直々に指名されるも、その招聘に応じる事はありませんでした。

「二度目」「三度目」の勧誘も実らず

ただそれで諦めきれなかった諸葛亮は、杜微に直接会ってお願いすべく、

馬車をやって杜微を連れてこさせて頼み込んだのです。

 

しかし杜微の返答は変わらず、諸葛亮の言葉に耳を傾ける事はありませんでした。

 

 

またこの時に「杜微の耳が不自由である」という事を知った諸葛亮は、

文字を書いて自らの想いを伝えています。

「王元泰(王謀)・李伯仁・王文儀(王連)・

楊季休(楊洪)・丁君幹(丁厷)・李永南(李劭)兄弟・文仲宝(文恭)らは、

いつも貴方の高い志に対して尊敬の念を抱いておりました。

 

だからこそこれまで会った事はありませんでしたが、旧知の如く感じていた次第です。

 

 

私は徳義が薄いにも関わらず、益州統治という大きな任務を授かりました。

しかしその責任を果たせるかどうか憂慮しております。

 

後主(劉禅様)におきましては、まだ若干十八歳ではありますが、

仁愛に富み、聡明な方で、徳ある人物を敬い、目下の者達まで大切になされる方です。

 

だからこそ多くの人々が慕っております。

 

 

私は貴方と共に劉禅様をお助けして、漢王朝の復興を成し遂げたいと考えているのです。

そしてその勲功を竹帛(史書)に残したいと思っております。」

 

これだけの諸葛亮自身の熱い想いを伝えたのですが、

 

それでも杜微は老齢と病気を理由に首を縦に振る事はなく、

「一刻も早く帰りたい」と素直な気持ちを伝えたのでした。

 

 

諸葛亮は残念に思いつつも、続けて次のように杜微に伝えます。

「曹丕は簒奪と弑逆しいぎゃくの罪を犯し、皇帝となっております。

しかしそれは土で作った龍や土で作った狗(犬)と同様で、実体のないものにすぎません。」

 

 

私は賢人と力を合わせて、曹丕(魏)を滅ぼしたいと考えております。

しかし貴方は山野に戻りたいと望まれており、そのことについては残念に思います。

 

現在曹丕は呉討伐に向けて準備をしており、

曹丕の多忙につけ込む形で、しばらく国境を閉鎖して農業を振興し、

民衆を思いやると同時に軍備の拡充に努めて、曹丕の挫折を待とうと思います。

 

そして曹丕の挫折後に兵を起こしたのならば、戦わずして天下を平定する事も可能でしょう。

 

 

貴方に軍事に関する責任を負わしたりする事はございません。

ただ貴方の徳義によって時代を補佐して頂くだけで十分でございます。

 

ですので、そんなに急いで去ろうとなさらずともよいではありませんか!?」

と伝え、軍事的責任の全くない諫議大夫かんぎたいふに任じたといいます。

 

ちなみに諫議大夫とは、皇帝(劉禅)が誤りを起こした際などに注意をし、

国家の利害得失について忠告する役割になりますますが、

 

杜微の場合は諸葛亮が杜微の存在を惜しみ、形式上に任じただけの官職であったと思いますので、

劉禅の側で実際に仕えたとかではないと思います。

 

そしてその後の杜微が、どういった生涯を歩んだのかなどは今に伝わっていません。