劉禅の才能
劉禅は、劉備の跡を継いだ皇帝です。
劉禅は劉備の遺言を守り、
諸葛亮を親のように慕い全幅の信頼を寄せます。
そして国内の政治も軍権も諸葛亮にゆだね、
皇帝が良く陥ってしまう「猜疑心」に取りつかれる事もありませんでした。
諸葛亮の死後にわたっても、諸葛亮が最期に残した遺言に従って、
蒋琬・費禕に政治を任せた事で、国内は安定を維持します。
「劉禅を無能」と呼ぶ人も多いですが、
「周りの人達を信頼して全力で任せる」ということは、
誰もができることではない凄い才能であると私は思います。
何色にも染まれる素質
直前でも触れましたが、
「劉禅は無能だった」「劉禅は暗君だった」と呼ぶ人も多いですが、
決して劉禅は暗君だったわけではありません。
「逆に暗君にも名君にもなれる素質」
を兼ね備えていたというのが正しいと思います。
「もしも周りの者達が優れていれば名君になれ、
逆に周りの者達が無能であれば暗君にもなる」ということです。
劉禅は何色にも染まる事ができたのです。
だからこそ諸葛亮が治めていた時代、
孔明が有能だったことで「蜀漢」という国は安定していました。
蒋琬や費禕に任せていた時も同様です。
つまりこれの意味する所は、
劉禅は「諸葛亮色」「蒋琬色」「費禕色」に染まったわけです。
そして蒋琬・費禕が亡くなると、
黄皓の台頭で蜀の政治は腐敗してしまいます。
その結果として国が乱れ、最終的に蜀漢は滅亡しますが、
これは劉禅が悪いというよりも、「黄皓色」に染まっただけなのです。
姜維が北伐を繰り返して国力を大きく低下させた点も考えれば、
「姜維色&黄皓色」に染まったという方が正確かもしれません。
洛陽での逸話(劉禅と司馬昭)
横山光輝三国志(60巻248P・249P)より画像引用
劉禅の評価を非常に低くしている原因の一つとして、
「終わりよければすべてよし」という言葉がありますが、
まさにその終わり方がまずかったです。
戦わずして降伏したのも評価を落とした原因の一つですが、
洛陽での司馬昭との出来事が劉禅の評価を大きく落としてしまいます。
劉禅は降伏後に洛陽に送られていますが、
洛陽で劉禅の為に行われた宴席で完全にやらかしてしまいます。
司馬昭が劉禅に対して、「蜀が懐かしいでしょう?」と尋ねると、
「ここでの生活が楽しいから、蜀を思い出すこともありません。」
と劉禅は返したのです。
これを聞いた司馬昭は驚き、
「劉禅がこれでは、諸葛亮が生きていてもどうにもならなかっただろう。
ましてや他の者では・・・」と話したという逸話ですね。
劉禅の後日談
「横山三国志」でも少しだけ描かれていますが、
「蜀を思い出すこともありません。」
と発言した劉禅に対して、郤正が次のように諫めています。
「もし今後、同じような質問を受ける事があれば、
先祖の墓も蜀にあるので、蜀を思い出して悲しまない日はありません。」
と答えるようにと助言を受けたわけですね。
これを密かに聞いていた司馬昭は、劉禅がどのように回答するか気になり、
後日に同じ質問を劉禅にしたといいます。
そうすると郤正が劉禅に教えられた通りの回答をしたため、
「その返答は教わった内容そのままですね」と司馬昭に言われる始末でした。
その司馬昭の返しに対して、劉禅は「その通りですね」と素直に返したことで、
司馬昭はこれに対して大笑いしたわけです。
ちなみにこの劉禅と司馬昭の逸話は、
「蜀志」後主伝の裴松之注(漢晋春秋)に残されている内容になります。
ただこの逸話からも分かる通り、素直で野心を持たない劉禅だったからこそ、
司馬昭・司馬炎に疑われることもなく、65歳まで天寿を全うできたのだと思います。
もしも劉禅が意図的に、上記のようにと言っていたとすれば、
「警戒心を抱かせないようにした見事な処世術であった」と言えることでしょう。
ただ劉禅が本当はどう考えてそれらの言葉を発したのかは、劉禅だけが知る所になりますね。