孔融と太史慈
青州の北海郡は、
孔子の子孫である孔融が治めていました。
孔子・・・儒教の始祖
その時、太史慈の母は
孔融に面倒を見てもらっていました。
そんな折に、
黄巾賊の残党である管亥(かんがい)によって
孔融は攻められてしまいます。
孔融に恩義を感じていた太史慈は、
平原を治めていた劉備に助けを求めようとします。
しかし、城は管亥軍に包囲されており、
脱出する事ができません。
太史慈の奇策
そこで太史慈は、ある作戦を思いつきます。
太史慈が二人の騎兵を伴って、城外へ飛び出したと見せかけ、
城の堀に入り、弓で矢を放つそぶりを見せるという行為を毎日行います。
最初警戒していた管亥軍も、
そのうち気にもしなくなり、彼が場外へ出ても立つ事もしなくなったそうです。
その様子を見ていた太史慈は、
その隙をついて、一気に管亥軍の囲みを突破します。
太史慈、孔融を救う
劉備の元に辿り着いた太史慈は、
劉備から3000人の兵士を借り受け、孔融の元へ戻ってきます。
そして太史慈によって
管亥軍は蹴散らされてしまいます。
慌てた管亥は、一目散に逃げて行ったのですが、
その後の消息は分かっていません。
太史慈によって救われた孔融は、
「我が若き友」と言い、大変感謝したそうです。
三国志演義での管亥
太史慈が、劉備に援軍をお願いし、
その望みをかなえ、劉備自ら孔融の援軍に向かいます。
援軍にかけつけた劉備軍に管亥軍は蹴散らされ、
管亥自身も関羽に一騎打ちの末に討ち取られた事になっています。
ちなみにその時の一騎打ちでは、
関羽と数十合討ち合った事になっており、
管亥の武勇の高さが加味されてます。