零陵太守の劉度

劉度曹操が荊州制圧を成し遂げた際に

零陵太守に任命された人物です。

 

ただ赤壁の戦いの後に、

劉備が荊州南部へと侵攻してくると、あっさり降伏してしまいます。

 

ちなみに簡単に降伏したのは劉度だけでなく、

趙範・韓玄・金旋らも同様なんですが・・・

 

まぁ金旋の降伏は認められずに、

討ち取られたという「三輔決録注」という資料に書かれていた季はするんですが、

一応正史の方では全員の降伏を劉備は受け入れてはいます。

 

降伏後の劉度ですが、その後の記載は何も残っていません。

 

 

ちなみに荊州南部の四郡を守っていた四人を見てみると

劉度(零陵郡)・趙範(桂陽郡)・韓玄(長沙郡)・金旋(武陵郡)なのですが、

 

 

まぁまともに記録があるのは、

 

漢王朝全盛期を築いた武帝から「金」姓を頂いた、

金日磾の末裔である金旋ぐらいですね。

 

金旋の息子は金禕であり、後に謀反を企てた事でも知られていますし、

経歴もですが、結構きちんとした記録が残されています。

 

 

まぁ後は長沙郡に墓碑(1983年に再度建てられた)が残っていたり、

「祟り神」としての逸話も残る韓玄も、劉度や趙範に比べたらましかもしれません。

 

とりあえず三国志演義では劉備のかませ犬として登場していますし、

正史ではこれ以上触れる所がない人物ではありますね。

記録が最も残っている荊州南部の四天王「金旋」

韓玄 -荊州南部の四天王(荊州四英傑)-

三国志演義での劉度

横山光輝三国志(28巻7P)より画像引用

 

三国志演義では、曹操が赤壁で孫権・劉備らに敗北すると、

領土拡大を目的に、劉備は荊州南部へと侵攻を開始していきます。

 

この時に荊州四英傑の一人として登場したのが、

零陵太守であった劉度でした。

 

劉度は臆病な性格だったのもあり、即座に降伏を検討・・・

 

 

しかし彼の息子である劉賢りゅうけんが、

「我が軍には、邢道栄けいどうえいがいるではありませんか!

 

 

邢道栄は大斧を自由に操れる豪傑なので、

 

邢道栄を先鋒として戦いに望めば、

 

相手が関羽であろうと張飛であろうと、

おかまいなしに討ち取ってくれることでしょう!!」

血気盛んに主張します。

 

 

劉賢の勢いにおされてしまった劉度は、

劉賢に兵を預け、邢道栄を先鋒にして張飛に戦いを挑むものの、

 

邢道栄は張飛に手玉に取られただけでなく、趙雲を目の前に簡単に降伏してしまいます。

 

 

捕らえられた邢道栄は劉備のもとへ連れていかれますが、

何故か逆に面白くなるぐらい、即座に劉備に「斬れ!」といわれる始末・・・

横山光輝三国志(28巻28P)より画像引用

 

 

 

いきなり「斬れ!」と処刑を宣告された邢道栄ですが、

「劉賢を説得してくるから開放してくれ!」と命乞いをします。

 

劉備は邢道栄の意見を尊重して開放するわけですが、

これは邢道栄の真っ赤な嘘でした。

 

劉賢の元へと戻った邢道栄は、経緯を説明して罠を仕掛けて劉備を待ち受けます。

 

 

しかし邢道栄が嘘をついていたこと、

また罠をしかけていることは既に見透かされていました。

 

その結果として、邢道栄は趙雲に討ち取られてしまいます。

 

 

また邢道栄が討ち取られてしまった劉賢は、

戦意を失って降伏!

 

敗北した事実を聞かされた劉度は、慌てて劉備へ降伏したという流れです。

劉度の処遇ですが、引き続き零陵太守を任せられていますね。

 

 

ちなみにですが息子である劉賢の名前ですが、劉延りゅうえんと記載されているものもあります。

横山三国志吉川三国志は、その代表格でしょう。

 

また劉賢(劉延)と邢道栄の二人ですが、

正史には記載が見られず、三国志演義だけの登場になっていますね。