劉備が漢中侵攻を開始し、

定軍山で夏侯淵を討ち取る事に成功したことで、

 

漢中攻略に見事に成功しています。

 

 

また一方の曹操も漢中への援軍を計画していたものの、

情勢が不安定だった事もあいまって、長安から動けずにいました。

 

 

曹操が動けなかった大きな理由として、

吉本の乱・侯音の乱が関係していたとも言われていますね。

 

ここではそんな吉本の乱・侯音の乱について触れていきたいと思っています。

劉備の漢中侵攻戦

217年に劉備は漢中へ侵攻を開始します。

 

この時劉備の背中を押したのが法正で、

劉備から絶大な信頼を置かれていた人物でした。

 

その法正が劉備に対して、

「現在漢中を任されている夏侯淵と張郃ならば、

十分勝機があります!

 

今こそ漢中を制圧してしまいましょう!!」

といって劉備に漢中攻略を進めたのがきっかけとなり、

漢中侵略が行動に移されます。

 

 

この時に漢中を守っていたのは夏侯淵・張郃だけでなく、

徐晃・郭淮も守備を任されていました。

 

「法正がチャンス」というものの、

曹操もまた信頼できる者に守備を任せていたのも事実です。

 

 

夏侯淵はいわずもがな、

張郃・徐晃は歴戦の猛者で五大将軍に数えられている程の者達です。

 

 

そして郭淮も頭角を現してきた人物の一人であり、

 

曹操もこの四人がいれば、

何かあっても漢中を守って守備を任せていたのでしょう。

 

ちなみにですけど、劉備と夏侯淵らが激突した頃、

郭淮は病気になって戦線から離脱しています。

 

 

そしていざ戦争がはじまると、

相手を上回る戦術を編み出したのが法正であり、

 

馬超・張飛が武都郡下弁を占領すると、

夏侯淵らは次第に劣勢に追い込まれていきました。

 

 

この時に曹操は北方軍事拠点であった鄴に滞在していましたが、

漢中の救援に向かう為に、大軍をひきいて出陣していくこととなります。

 

またその先鋒隊として、

曹洪・曹休・曹真らに五万の部隊を先に援軍として向かわせています。

 

ちなみにちょうど217年12月あたりの話になります。

北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない人物〜

吉本の乱

蒼天航路(32巻44P)より画像引用

 

218年の正月に、吉本きちほんは息子の吉邈・吉穆と共に、

金禕・韋晃・耿紀と組んで許昌で反乱を起こしました。

 

許昌を曹操から任されていたのは王必おうひつで、苦戦を強いられてしまいます。

 

 

王必は金禕と仲が良かったのですが、

 

その金禕が首謀者の一人であったことを偶然にも知ってしまい、

典農中郎将の厳匡げんきょうらと協力して鎮圧に成功しています。

 

 

ただこの反乱の規模はそれほど大きなものではなく、

その上にすぐに鎮圧されてしまった事で影響は小さかったかもしれません。

侯音の乱

蒼天航路(34巻204P)より画像引用

 

ただ218年10月に起きた侯音こうおんの乱」は、

間違いなく漢中へ及ぼした影響ははかりしれないものでした。

 

 

「漢中の戦い」は開始してから一年程立っており、

曹洪・曹休らが張飛・馬超に奪われていた下弁を奪い返しはしたものの

 

夏侯淵らの劣勢はかわらずに続いている状況でした。

 

 

そして曹操も曹洪・曹休・曹真ら五万人の軍勢を既に送ってはいましたが、

更なる援軍を送る必要も考えていました。

 

その証拠として曹操自身も、

218年9月には大軍を率いて長安まで来ていたからですね。

 

 

ここで合戦に望む前に兵士に休養を与えていたわけですけど、

218年10月、南陽郡の宛城で侯音が反乱を起こします。

 

そしてこの侯音の反乱は南陽郡の多くの県を味方につけ、

南陽郡を任されていた東里袞ことうりこんも侯音に追われる始末でした。

立て続けに三度の捕虜経験を持つ東里袞(とうりこん)

 

 

 

そしてなにより問題だったのが、

侯音が反乱を起こした後ろで荊州の関羽が通じている可能性が想像でき、

 

もしここで関羽が樊城を制圧して進軍すれば、

都であった許昌すら危険に陥ってしまう危険をはらんでいたわけです。

 

 

また同時に現在の漢中の状況も打開しないといけない中で、

曹操は葛藤の中にいたのだと思います。

 

 

だからこそ曹操は漢中から近い長安にいながらも、

 

南陽郡と漢中の双方に睨みをきかせる意味でも、

長安に滞在をしたのでしょう。

 

 

しかし実際は関羽が侯音に同調することはなく、

また曹仁の活躍もあって219年の1月に侯音の反乱は鎮圧されることとなります。

 

つまり四カ月で侯音の反乱は鎮圧されたということですね。

 

 

 

曹操は侯音の反乱が鎮圧できたことで、

曹操は遂に双方の板挟みから解放されることとなります。

 

そして曹操は急いで漢中へと進軍を開始しました。

 

 

しかし曹操が漢中へと到達する間際、

夏侯淵は黄忠によって討ち取られてしまうこととなったわけです。

 

 

そもそも夏侯淵が討ち取られた原因として、

劉備軍によって焼き払われていた逆茂木さかもぎの修復

大将であった夏侯淵自ら向かってしまいます。

 

そこで黄忠に不意を襲われて形で討ち取られてしまっています。

 

 

 

また後に曹操が夏侯淵の死因を知った際に、

 

「指揮官たるもの自ら戦う事は避けなくてはならない。

ましてや逆茂木の修復に向かうとは何事だ・・・」

と落胆した話が残っています。

「侯音の反乱」が起きていなければ・・・

ただ侯音が反乱を起こしていなければ、

曹操率いる援軍が漢中へと間違いなく到着していたでしょうし、

 

そうなれば夏侯淵は討ち取られることもなく、

「曹操が定軍山など要所要所の地を、

確実に固めていった可能性が高い」と思います。

 

 

そもそも劉備陣営によって定軍山を奪われてしまったことで、

曹操の援軍が到着してからも劉備らは守りに徹することができていますかね。

 

そして戦況を打開することができないと判断した曹操は、

最終的に退却を余儀なくされることに・・・

 

 

そう考えると曹操が長安で足止めを食らってなければ、

劉備は漢中攻略が普通に失敗に終わっていた可能性が高いと言えるでしょう。

 

そう考えても「侯音の反乱」がもたらした影響は、かなり大きかったと思います。

 

 

なおかつそれにプラスする形で関羽が侯音を支援していれば、

その後の状況は大きく変わっていた可能性は十分にあったかなと思いますね。