孫邵(そんしょう)

 

まず「孫邵」って誰って思う人も多いかもしれませんけど、

孫権が皇帝になった際に、初代丞相に任命されたのが孫邵なのです。

 

蜀でいえば、

諸葛亮の立場に任命されたのと同じわけです。

 

にも関わらず、

陳寿が描いた三国志正史に個人伝が作られていないのです。

 

 

相当マニアックな人物であれば分かりますが、

初代丞相にまで上り詰めた人の個人伝がないのは異例中の異例。

 

そして彼がどんな人物だったのかは、

外交面で力を発揮したそうですが、三国志演義にも全く登場しません。

 

孫邵について残っている記録は、

孫権(呉主)伝において裴松之が引用した「呉録」にかろうじて記載されている情報のみになります。

孔融に愛された孫邵

孫邵は北海郡の出身で、

北海郡と言えば当時孔融が治めていた土地でした。

 

最初孫邵は、孔融に召し抱えられ、

功曹に任命されています。

 

 

ちなみに功曹とは中国の官職の一つで、

人事を担当していて、今でいう所の人材面接官みたいな仕事ですね。

 

孔融は孫邵の能力を

「廊廟の才あり」と非常に高い評価を与えています。

曹操の逆鱗に触れた孔子の子孫「孔融」

 

身長は八尺あり(約180cm)あって、見た目も立派な風格だった為、

後に仕える孫権からの信頼も厚く、愛されたようです。

孫邵が立伝されなかった最大の理由

三国志正史を描いた陳寿は、

もともと蜀に仕え、後に魏に仕えた人物ですが、

 

陳寿は「蜀書」「魏書」しか書いておらず、その後に急遽「呉書」を追加した為、

参考にする情報量が圧倒的に少なかったため、完成度が低かったからだともいわれています。

 

陳寿が呉書を制作する上で参考にしたのは、

韋昭(いしょう)が記載した「呉書」からでした。

 

 

ちなみにこの韋昭という人物は、

当時孫邵と対立していた次世代エースと期待された張温一派でした。

 

その為、孫邵ははぶられたのだと言われています。

初代丞相候補から考察

 

当時、丞相候補筆頭に張昭がいました。

孫策の時代から仕え、孫一族からも絶大な信頼を得ていた人物です。

生涯かけて剛直な態度を貫いた呉の御意見番「張昭」

 

ですが張昭があまりにも思った事をズケズケと孫権に意見する為、

孫権にとっては頭の上のたんこぶであったことも確かだったようです。

 

子供喧嘩みたいな二人のやり取りの記録も沢山残ってます。

孫権が張昭の家を燃やすまでに発展した大喧嘩!

 

 

次の候補とし孫邵と対立していた張温。

 

後に孫権に嫌われ失脚してしまいますが、

次世代エースと言われ、孫邵死後に丞相に任命された顧雍であったり、

また丞相最大候補と言われた張昭からも期待されていた人物でした。

 

 

普通に考えて孫邵が丞相になる確率は、

派閥的にも非常に可能性は低かったと思えます。

 

しかし、初代丞相に任命されたのは孫邵でした。

そのことからも、それだけの能力を備えていたからでしょう。

 

それなのに個人伝が結局立てられなかったのは、

韋昭が属していた張温一派が孫邵を嫌ったから書かなかったという可能性がやはり濃厚かなと思うわけです。

 

 

ただ三人の候補の中で、

孫邵が最終的に任命された最大の理由は、

 

何かと衝突していた張昭やその張昭から期待されていた張温を丞相に任命しでもしたら、

今後何かと政治がやりにくいなぁという孫権の想いがあったのかもしれません。

 

そんな単純な理由の気も少なからずします。

他の文献から更に考察

「呉書」を描いた韋昭が張温一派だったからだと上で書きましたが、

実際孫邵の扱いがひどいのはそれだけではありません。

 

陸遜の孫にあたる陸機(りくき)は、「弁亡論」というものを残していますが、

ここには呉に功績のあった多くの人物が紹介されています。

 

ちなみに後に呉の衰弱を招いてしまう皇太子争い(二宮の変)で、

陸遜が歩隲(ほしつ)・呂岱(りょたい)らと対立するんですけど、

 

 

陸機の「弁亡論」では、

一族である陸遜と対立したその二人すら名前がきちんと出てきます。

でも孫邵の名前はないんですよね。

 

何故ここまで孫邵の記録を残さなかったのか甚だ疑問しかないですが、

呉の初代丞相に優れた孫邵という人物がいたのは確かな事実です。

 

優れた人物であるにも関わらず、

歴史の中で消えていった人がいるというのは悲しいもんです。