孫羌・孫堅・孫静兄弟

孫静は孫鍾そんしょうの末子であり、孫羌・孫堅の弟にあたる存在です。

 

早くして亡くなった孫羌に関しては、ほとんど資料もないぐらいで、

それに比べたらまだ記録が残されているのが孫堅の弟にあたる孫静ですね。

 

孫静には孫暠・孫瑜・孫皎・孫奐・孫謙といった五人の息子達がいた事でも知られています。

孫静(幼台

孫堅は生涯において戦いの中に身を置いた人物ですが、

孫静はそれと真逆に近い人生を送っています。

 

 

ちなみに孫静が誕生した年は今に伝えられていませんが、

兄の孫堅が155年・156年生まれとされており、

 

孫静の長男である孫暠そんこうの誕生年は不明ですが、

孫静の次男である孫瑜が熹平六年(177年)という事は分かっていますので、

高い確率で150年代後半の可能性が高いと思われます。

 

 

そんな孫静ですが、孫堅が董卓討伐等で外征して名を上げた際、

孫静は一族や同郷の者を500人~600人集めて後方の守りを固めていました。

 

彼らは皆、孫静の言葉をよく聞いて従ったといいます。

 

 

そんな中で孫堅が黄祖との戦いの最中に討死したわけですが、

孫静が何かしらで動いたといった記録はありません。

 

孫堅の生前同様に、一族の者達を変わらず守っていたという感じなのでしょう。

孫策軍に合流

孫堅亡き後、袁術のもとに身を寄せていた孫策ですが、

半ば独立を目指す形で江東へ進出した際に、孫静の元にも使者が送られます。

 

孫策からの手紙を見た孫静は、一族の者達を率いて呉郡銭唐県にて合流を果たしています。

 

劉繇の撃破→許貢の撃破→厳白虎の撃破と、

孫策は快進撃を続けていたわけですが、更に会稽郡へと兵を進めており、

王朗との戦いが新たに始まっていたタイミングでもありました。

孫静の知恵

孫策は会稽郡へと兵を進めるものの、

会稽太守であった王朗が固陵の守りを固めていた事で、

何度も渡航して戦いを挑むも王朗の守りを突破できずにいました。

 

苦戦をする孫策に対して、孫静は次のように助言をしています。

「王朗が険阻な地形を活かして城を守っており、

この城を簡単に落とすことはできない。

 

ここより南に数十里の場所に査瀆さとくという場所があり、

交通の要衝とも言える地である。

 

まずはこの査瀆を攻め取る事ができれば、

固陵を内側から攻めて不意を突く事も可能になろう。

 

もし聞き入れて頂けるようなら、私自ら攻略して見せようぞ。」

 

この助言を聞いた孫策は孫静の策を採用し、孫策と孫静は王朗を倒すべく動き出したのでした。

会稽郡攻略(王朗敗北)

 

孫策の許可を得た孫静は、まず味方を巻き込んで嘘の情報を流します。

「雨が続いていた為に水が濁ってしまっている。

 

そんな水を飲んでいる事によって、多くの兵士が腹痛を起こしている。

綺麗な水を確保する為に数百の瓶(壺)を集めなさい。」

 

このように孫静が味方に嘘の情報を流したのには理由があり、

敵の密偵等によって偽の情報を伝えさせる事を狙ったものだったと思われます。

 

 

数百の瓶が集まった事で、次の行動に移します。

それらを並べて夜を待つと、そこに火を焚いて王朗軍の注意をひきつけたのでした。

 

その隙に別動隊を率いた孫静は査瀆の地へと兵を進め、高遷の軍営を襲撃します。

 

また高遷襲撃の報告を受けた王朗は、急いで周昕(丹陽太守)を援軍として送るも、

その動きを既に読まれていた孫策によって周昕は討ち取られてしまいます。

 

孫策は勢いそのままに王朗を破り、会稽郡の平定に成功したわけですね。

 

 

孫静によって見事に王朗を破る事に成功した孫策でしたが、

もし孫静の知恵がなければ、固陵を力押ししている中で討死していた可能性もあるかもしれません。

 

孫堅が黄祖との戦いの中で討死したように・・・

その後の孫静

孫策は孫静の功績を高く評価し、奮武校尉にすべく上奏しようとしますが、

孫静は故郷(呉郡)を懐かしみ、一族の者達の安住を願って、官職につくことを潔しとせずに断ります。

 

一方で故郷の守りに徹したいと希望し、その願いが聞き入れられています。

 

孫策が殺害されて孫権が後継者となると、

孫静は昭義中郎将にまで昇るものの、後に退官して自宅で亡くなったと記録は残っています。

 

そんな孫静をまとめてではありますが、陳寿は次のように評価しています。

孫静や皇室の子弟らは、国家の礎を定めるのに力を発揮したり、

国境の地の守りに力を発揮したりと、それぞれの役割を立派に果たした者達である。