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呉景 -孫呉黎明期を支えた孫呉の重鎮-

呉景は、後漢末期から三国時代初期にかけて活躍した人物であり、
後の孫呉政権成立を支えた重要な一族の一人です。
姉は、孫堅の正妻として知られる呉夫人でした。
正史三国志によれば、呉夫人は若くして両親を失っており、一族の中で育てられました。
呉景も同様に、幼少期から姉と支え合う立場にあったと考えられます。
また当時の孫堅は、まだ天下に名を轟かせる以前の地方軍人でした。
一方、呉氏は江東の名族であり、家格では呉家の方が高かったとも言われています。
そのため、孫堅が呉夫人へ求婚した際、一族には反対意見も存在しました。
しかし呉夫人は、「吉凶は天命によるもの」として婚姻を受け入れたと、「呉志」呉夫人伝に記されています。
この婚姻によって、呉景も孫堅陣営へと加わることとなりました。
孫堅配下としての活躍
呉景は孫堅に従い各地を転戦し、軍功によって騎都尉に任じられています。
ここで注意したいのは、呉景が特別破格の出世をしたとまでは正史に明記されていない点です。
ただし、
- 孫堅軍初期から従軍
- 継続的に軍事行動へ参加
- 一定以上の官位へ昇進
していることから、孫堅から信頼される有力武将だったことは確かでしょう。
また、単なる義弟だから重用されたというより、
- 呉家の名望
- 軍事能力
- 一族統率力
を兼ね備えていたため、重要視されたと見る方が自然です。
孫堅の戦死&袁術への従属
初平二年(191年)頃、孫堅は劉表との戦いで戦死してしまいます。
正史では、峴山付近で黄祖軍の伏兵を受けて討死したとされます。
孫堅の死後、孫氏勢力は大きく動揺しました。
この時、孫堅旧軍をまとめたのが、
- 孫賁
- 呉景
らでした。
彼らはその後、淮南で勢力を持っていた袁術を頼ります。
丹陽太守への任命&孫策への援護
袁術は呉景を丹陽太守に任命しました。
任命された理由としては、
- 孫堅旧軍との繋がり
- 江東での影響力
- 丹陽統治能力
を評価して起用されたと考えると自然でしょう。
当時の丹陽では、周昕が勢力を持っていました。
そのため呉景には、袁紹勢力を排除し、袁術派の地盤を築くという軍事的役割も与えられていました。
呉景はこれに成功し、丹陽支配を確立します。
この頃、父を失った孫策はまだ若年でした。
呉景や孫賁は、孫策・呂範・孫河(兪河)らを支援し、孫氏再興を助けています。
ここでの呉景は、孫家を支える外戚長老のような立場だったと考えられます。
特に丹陽は兵士供給地として重要であり、後の孫策軍の基盤形成にも大きく関わりました。
揚州を巡る争い(孫策VS劉繇)

その後、揚州刺史である劉繇との対立が激化します。
劉繇は朝廷から正式任命された刺史であり、単なる地方軍閥ではありませんでした。
一方の呉景・孫賁は袁術勢力側です。
つまり、
- 朝廷派(漢王朝)の劉繇
- 袁術派(独立勢力)の呉景・孫賁
という対立構造になります。
正史三国志にも呉景と孫賁らと、
- 樊能(横江津)
- 于糜(横江津)
- 張英(当利口)
ら劉繇配下との戦闘が記録されており、苦戦を強いられていました。
ここで援軍として現れたのが孫策です。
孫策は果敢な攻勢によって戦局を覆し、劉繇勢力を崩壊へ追い込みました。
この戦いは、孫策が江東覇権へ進出する第一歩とも言える重要戦争だったのです。
袁術の皇帝僭称&袁術との決別
建安二年(197年)、袁術は皇帝を称します。
これは当時、多くの群雄から強い反発を受けたのは言うまでもなく、
孫策もこれを機に袁術と距離を置き、事実上独立します。
また呉景や孫賁も、袁術を見限り孫策陣営へと合流を果たします。
再び丹陽太守へ
孫策は呉景を厚遇し、再び丹陽太守へ任命します。
この時、丹陽では徐琨も活動していましたが、
ただし、呉景が旧来より丹陽に名望を持っていた事もあり、再任されたと思われます。
呉景は晩年である建安八年(203年)、丹陽太守在任中に死去しました。
この頃には孫策の基盤はほぼできあがっていましたが、その直後、孫策自身も若くして世を去ります。
その後を継いだのが弟の孫権だったのです。
正史における呉景の位置付け
正史では、呉景は英雄や名将としては描かれていません。
しかし実際には、
- 孫氏外戚
- 江東統治の実務者
- 丹陽支配の要
- 若き孫策を支えた重臣
として極めて重要な人物であったことは間違いないです。
孫堅・孫策・孫権と受け継がれた孫呉政権は、
孫氏・呉氏・徐氏など宗族ネットワークによって支えられていました。
呉景は、その土台を築いた功臣の一人だったと言えるでしょう。






