呉景(ごけい)

呉景の姉は孫堅の妻であった呉夫人の弟です。

二人は幼い頃に両親を亡くしており、呉夫人と呉景は協力しながら生活していました。

 

ある時、呉夫人の才色兼備の噂を聞きつけた孫堅が

呉夫人に結婚を申し込みます。

 

この時、呉夫人の親族らは反対していましたが、

呉夫人はこれも運命なのだと親族を説得し、孫堅と結婚

 

これを機に、呉夫人の弟であった呉景は孫堅に仕える事になったわけです。

 

 

そして孫堅軍の中にあって呉景は多くの手柄を上げていき、

騎都尉にまで出世しています。

 

当時の孫堅は、まだまだ無名に近い人物でしたので、

騎都尉に任じた事自体が異例ともいえる程の出世なわけですけどね。

 

呉景は呉夫人の弟というのも少しはあったのかもしれませんが、

それ以上に孫堅を唸らせるだけの才能も実際に兼ね備えていたのでしょう。

孫策、呉景を頼る

孫堅が劉表を攻めていた際に討死してしまいます。

 

そして主人がいなくなった軍勢をまとめ上げたのが孫賁でしたが、

孫賁や呉景は行き場もなく、袁術を頼っていく事になります。

孫堅亡き後の孫家復興に尽力した孫賁・孫輔兄弟

 

 

袁術は孫家より呉家の方が名門だという事もあり、

呉景を丹陽太守として抜擢。

 

しかしここは既に袁紹が派遣していた周昕が太守を務めており、

周昕を追い払って袁紹勢力を駆逐してくれという意味合いも含まれていました。

 

そして期待に応えた呉景は、周昕を追い払って丹陽太守の座につきます。

この時に孫策とそれに従う呂範・孫河を保護してあげています。

孫策から家族同様の扱いを受けた側近「呂範」

孫堅・孫策の腹心として二人を支え続けた孫河

 

もともと呉家は孫家より名家であったので、

元通りに戻ったような感じですかね。

 

あくまで呉夫人を娶ったことで、

一時的に孫堅の方が立場が強いような感じになっただけです。

劉繇との戦い

呉景は揚州刺史であった劉繇と争い、丹陽郡を奪われてしまいます。

 

丹陽郡を追われた呉景は、袁術の元に戻るわけですが、

その後リベンジ戦として呉景・孫賁に命じて劉繇討伐軍を結成。

 

 

しかしまたもや劉繇軍の抵抗に苦戦させられます。

 

特に樊能・于糜が守っていた横江津と張英が守っていた当利口は、

何度攻撃しても突破できませんでした。

 

この時呉景・孫賁の援軍として駆け付けたのが孫策でした。

 

孫策の登場により戦局は一転し、劉繇を見事に打ち破ることに成功。

そして劉繇を打ち破った事を袁術に報告する為に、呉景・孫賁はここで撤退します。

 

一方の孫策はというと、快進撃を続け会稽郡まで制圧。

ただ会稽郡を攻略できたのは、孫策の叔父にあたる孫静のお陰でもありましたが・・・

孫静 -会稽郡攻略を成し遂げた立役者-

呉景、袁術を見限る

袁術が皇帝を自称すると、

多くの者達が袁術を敵対視していきますが、

 

事実上袁術の配下であった孫策も、

これを機に完全に袁術との縁を切って独立を果たします。

 

これは呉景も同じで、袁術に未来はないと見限り、

孫賁とともに孫策の元に馳せ参じます。

 

 

孫策は、呉景が来たことを喜び、

以前丹陽太守をやっていた呉景を再び丹陽太守に任命します。

 

この時、同じく孫一族であった徐琨じょこんに命じて、

袁術軍の袁胤が治めていた丹陽を攻めとり、丹陽太守に任じてましたが、

 

もともと丹陽を治めていて人民に慕われていたということから、

徐琨から呉景を丹陽太守に変更したわけです。

徐琨・・・徐真と孫堅の妹との間にできた子供

 

 

実際、徐琨に丹陽太守を任せたままでは、任せる兵力が大きすぎたために、

心配して呉景に変更したのだともいいます。

 

孫策の中では、呉景も袁術との狭間で行ったり来たりした感じは否めませんが、

同じ一族でも徐琨より呉景の方を信頼していたのでしょうね。

 

 

そして203年、呉景は丹陽太守についたままこの世を去ったそうです。