孫堅のもとで活躍した程普

程普は字を徳謀といい、幽州右北平郡の出身になります。

立派な風貌をしており、若かりし頃は州や郡の役人をしていたといいます。

 

そんな程普でしたが、孫堅に仕えることとなり、

黄巾の乱時の討伐などの中で、活躍していくこととなります。

 

 

黄巾の乱の際の孫堅は、朱儁指揮下に従っていましたので、

 

潁川郡で波才との戦いに苦戦を強いられるものの、

皇甫嵩や曹操の援護のお陰もあり、最終的に滅ぼすことに成功していますね。

 

その後は朱儁・孫堅らは荊州の反乱討伐へと向かったわけですが、程普はこれにも付き従っています。

 

 

董卓の暴政により反董卓連合が結成されると、

孫堅もまた袁術傘下の一人として董卓との戦いに赴くことになりますが、

 

陽人の戦いで孫堅は胡軫・呂布・華雄らを打ち破ることに成功しています。

 

この戦いでも程普は活躍しているわけですが、

多くの傷を負ったと「呉志」程普伝には記録が残されています。

 

 

しかし袁術の命令にて行った劉表討伐戦に失敗し、

この戦いの中で黄祖に討ち取られてしまうこととなったわけですが、

 

残された孫堅の軍勢をまとめたのは孫賁であり、程普もこれに従ったといいます。

 

この時の袁術は曹操との戦いに敗れた後であり、寿春に本拠地を移していましたが、

孫賁は袁術のもとに戻り、袁術の傘下に収まる事となったのでした。

孫策のもとで活躍した程普

孫策が袁術より兵を借りて江東へ進出した際には、

程普もまた孫堅時代から同じく仕えた黄蓋・韓当・朱治らと共に孫策に従うこととなります。

 

つまり程普は袁術ではなく、孫策に未来を見たわけですね。

 

孫策軍は負け知らずで連戦連勝を繰り広げていくことになるわけですが、

劉繇との戦いの際には、程普は大きな活躍を見せたことで、

二千人の兵士を任されることとなります。

 

そして程普は次々と功績をあげていくわけですが、

王朗(会稽郡太守)を滅ぼすと、程普は呉郡都尉に任じらたのでした。

 

 

それから少しすると、丹陽郡の都尉へ転任されていますが、

程普が丹陽郡の都尉を任されることになったのには理由があり、

その地域での反乱が相次いでいた事が挙げられます。

 

程普は孫策の期待に応え、

宣城・痙・安呉・陵陽・春穀の反乱討伐に成功しています。

 

孫策は短期間に多くの者達を力でねじ伏せたことによって敵も多かったこともあり、

そういった中で起こった反乱でもあったのでしょう。

 

そんな中で丹陽郡で祖郎そろうが起こした宗教反乱の討伐には孫策自身が乗り出したわけですが、

孫策は包囲をされてしまうことがありました。

 

この時に程普が取った行動は、一人の騎兵の者と二人で大声をあげながら突撃をします。

 

しかしこの行動のお陰で、敵の注意が程普らに向いたことで、

包囲に穴が開いたことで、孫策をそれを逃さず脱出に成功できたわけです。

 

これ以降に程普は零陵太守に任じられるわけですが、

この当時の零陵郡は孫策領というわけでないのいで形式上の太守だったといえますね。

 

その後も程普は劉勲討伐や黄祖討伐にも参加しています。

孫権に仕えた程普

孫堅・孫策の主要人物として活躍してきた程普でしたが、

孫策が刺客に襲われた事がきっかけで命を落としてしまいます。

 

孫策を襲わせたのは陳登であったという話もあったりします。

 

 

孫堅の時から仕えてきた程普ですが、

孫策に引き続き、今度は孫権に仕えることになったわけです。

 

程普は孫権の世代になっても活躍を続けます。

 

 

建安十三年(208年)の赤壁の戦いでは、

程普は周瑜・黄蓋らと連携し、鳥林を襲って曹操軍の撃退に成功しています。

 

孫権はこの時に程普は右都督として、

周瑜を左都督として指揮を任せていますが、

程普と周瑜の不仲のせいでうまく連携ができなかった部分があった後に呂蒙が語っていますね。

関羽討伐戦の時ですが、孫権が呂蒙と孫皎の二人を都督にしようとします。

この時に周瑜と程普の事を例に挙げて、指揮の一本化を説いた逸話になります。

 

結果的に赤壁の戦いに勝利し、苦戦の末に江陵奪取に成功していますが、

この時に程普は江夏太守に任じられ、四つの県が食邑として与えられています。

その後の程普

予期せずに周瑜が病死すると、

周瑜が任されていた南郡太守の後釜を任されることになります。

 

その後に劉備と孫権との間で話し合いがなされると、

程普は再び江夏太守に戻ることになり、盪寇将軍に任じらた後に死去したようです。

 

 

余談ではありますが、程普の最期には諸説あり、

その中でも濃厚とされているのがハンセン病だとされています。

 

そう言える理由としては、「呉志」程普伝(裴松之注「呉書」)を見る限りは、

ハンセン病と思われる記載が見られるからになります。

 

 

ハンセン病は古来より人に恐れられてきた病気の一つで、

「らい菌」に感染することで起こる病気で、神経麻痺を引き起こしたりする難病ですが、

 

現在では完治できる病気の一つでもありますね。

 

ただそこには合わせて、百余日で亡くなったとされている点を考えると、

ハンセン病に近い別の病気の可能性もあると思われます。

盪寇将軍」にまつわる伝説の紹介

これは「古今刀剣録」にみられる呉の伝説の刀剣の話ですが、

ここで話す伝説の陶謙の話は程普ではなく、周瑜についての逸話になります。

  • 盪寇将軍
  • 韓信の剣

 

【韓信の剣について】

又赤烏年中、有人得淮陰侯韓信劍、帝以賜周瑜。

「赤鳥年間(238年~251年)に、

淮陰侯である『韓信の剣』が発見され、孫権はその剣を周瑜に与えた。」

という意味になりますが、色々とツッコミどころしかない逸話です。

 

そもそもの話として、周瑜は建安15年12月(211年1月)に亡くなっていますからね。

 

 

【蕩寇將軍の刀について】

周瑜作南郡太守、造一刀、背上有「蕩寇將軍」字、八分書。

「周瑜が南郡太守となり、一振りの刀を作り、

背の上に『盪寇将軍』という銘を八分体で刻んだ。」という意味ですが、

「韓信の剣」同様に、三国志にそれなりに詳しい方ならまず疑問に思う記載があります。

 

 

周瑜は南郡太守には任じられている事は間違いないですが、

「盪寇将軍」になんて任じられていません。

 

周瑜が任じられていたのは偏将軍ですから、

そんな周瑜が自らと関係がない「盪寇将軍」を刀に掘ること自体がおかしいわけです。

 

 

ちなみに上でも述べていますが、

周瑜は左都督として赤壁の戦いで勝利に導いた人物ですが、

 

この時に右都督として活躍した人物が程普であったわけです。

 

このように周瑜と似たような立場にあった程普ですが、

周瑜亡き後の南郡太守に任じられ、盪寇将軍にも任命されています。

 

 

この事からもおそらく周瑜と程普についての逸話がごちゃ混ぜになり、

民間伝承かどうかは分かりませんが、おかしな形で後世に伝わった可能性があると思います。

 

ちなみに「盪寇」とは、「てきとうす」と書いて、

「敵を洗い清める」、つまり「敵を滅する」というような意味があったりするのは余談です。

「古今刀剣録」にみられる呉の伝説の刀剣(孫権,孫亮,孫晧,周瑜,周泰,蒋欽,董襲,潘璋,朱治)

周瑜&程普の逸話(「呉志」周瑜伝 -裴松之注「江表伝」-)

孫堅の代から孫家に仕えていた程普は、

孫策時代にいきなり入ってきては重要な役割を任せられていたことからも、

程普は周瑜の事がどこか好きになれなかったようです。

 

このあたりの事は上での呂蒙の逸話からもわかる話になります。

 

 

しかし国の為、主君の為に一生懸命に動く周瑜を見ていくうちに、

周瑜を認めるようになったといいます。

 

それからというもの、程普と周瑜は言葉を交わす機会も増えていったようですが、

「周瑜殿と話していると、

美味しいお酒を飲んでいる時のように、

 

いつの間にか魅せられて、

酔ったような感情になっている私がおります。」と語った逸話が残されています。

 

年齢差も経歴も違えど、男が男に惚れるといったことでしょうね。