孫策に仕えた徐盛
徐盛は徐州琅邪郡の出身ですが、
黄巾の乱をきっかけに徐州が荒れると、揚州呉郡へと避難!
少しして孫策が江東進出してくると、
それをきっかけに孫策に仕えることとなります。
孫策が殺害されてしまうと、
徐盛は跡を継いだ孫権に仕えることとなるわけですが、
徐盛は肝が据わっていた事もあり、
孫権からも大いに期待されることとなるのでした。
それから間もなく、徐盛はサクッと別部司馬に任じられたことで、
兵五百人を任されるようになるわけで・・・
黄祖侵攻からの防衛任務
ある時に孫権にとっては父親である孫堅の仇である黄祖が、
江夏から侵攻してくることがありました。
それを防ぐ為に、徐盛がその役目を与えられます。
そして孫権の期待に応えた徐盛は、
黄祖軍を見事に防いでみせたのでした。
黄祖の子である黄射が数千人を率いて攻めてきた際にも、
二百人にも見たいない兵でこれを打ち破る事にも成功したりしてます。
この戦いで徐盛が黄射を徹底的に破ったことで、
孫権領へ攻めることは完全になくなっていくことになります。
つまり黄祖や黄射は徐盛がいううちは、
孫権軍の領地を奪うことは難しいと心のどこかで思っていたのでしょう。
見事な勝利を収めた徐盛は、赤壁の戦い・合肥の戦い・濡須口の戦いなど、
後の重要な戦いには身を置いていくことに・・・
曹丕の魏建国&孫権の呉王任命
曹丕が後漢より禅譲を受ける形で滅亡し、
曹丕が「魏」を建国すると、孫権が曹丕に塚づいた事で呉王に任じられました。
この時、魏から邢貞がその使者として訪れたのですが、
形式的に孫権が魏の臣下になったということもあり、
邢貞は孫権や孫権臣下に対して、傲慢な態度だったといいます。
この邢貞の態度に対して、孫権の臣下らのほとんどの者達が怒りを露わにしたものの、
それを言葉に出せる者はいませんでした。
そんな中で徐盛は邢貞の前に歩み出て、
「我々は一生懸命に国の為に働いてはいたが、
許昌や洛陽だけでなく、
益州(蜀)すらも手に入れる事ができていない!
だからこそ、
孫権様にこんな屈辱的な辱めを与えてしまった!!」と言い放ち、
その場で号泣したといいます。
そんな徐盛の様子を見ていた邢貞は、
「このように国を想う者がいる呉が、
いつまでも魏の下で大人しくしていることはあるまい!!」
と思ったと伝わっています。
夷陵の戦い・洞口の戦い
劉備が夷陵へ攻め込んできた際は、
陸遜の指揮のもと迎撃の任にあたり、
劉備を撃退する事に見事に成功しています。
この際に劉備を捕らえる為に、徐盛は潘璋ら同意見の者達と共に、
「劉備を更に追撃して討ち取るべきだ!」と進言しますが、
魏の動きが不透明であったこともあって、総指揮者であった陸遜の考えに従って撤退することに・・・
夷陵の戦いが起こっている事を聞いた曹丕は、
劉備が負ける事を読み切り、呉軍は勢いのまま蜀へ攻め込むだろうと考え、
三方面から呉へ攻め込む準備を整えて、侵攻を開始したわけですね。
しかし曹丕の予想と反した動きをしていたのでした。
陸遜の見事な読みによって・・・
そのお陰もあって、
孫権は魏に対して迅速な守備固めを行えたのでした。
この時に徐盛が何を任されたのかというと、
呂範や全琮と共に、
曹休が率いる十万の軍勢の対応を任されるという事態に・・・
また兵力差だけでなく、
実際に魏軍と対峙した徐盛・呂範・全琮に不幸が起こってしまいます!!
暴風雨が吹き荒れたことによって、
呉軍は大被害を・・・
戦う前に思わぬ大被害を受けてしまった徐盛達は、
今の状態で魏軍と戦うと全滅する恐れがあると判断した結果、
急いで敗残兵をまとめて、
曹休軍と長江を挟んで対峙する決定をしたのでした。
そして曹休は数の有利を持って徐盛が守る場所を攻めますが、
徐盛は獅子奮迅の働きを見せ、
少ない兵で曹休の攻撃を防ぐことに成功!
これに対して、曹休は更に追加の兵を繰り出しますが、
何度攻撃しても徐盛を打ち破ることはできなかったようです。
最後の最後まで呉の守りを突破できなかった曹休は、
仕方なく撤退を余儀なくされています。
また他の二方面の魏軍も突破する事ができず、
三方面から侵攻したこの戦いは、呉の勝利で幕を閉じたのでした。
最後となる孫権への奉公
224年に入って、曹丕が新たに十万の軍勢を率いて攻め込んできたことがありました。
この時に曹丕の軍を追い返すべく、色々な意見が出てきます。
そんな中で徐盛は建業より海岸沿いに従って、
偽の城壁を建設させる事を提案!!
この案を聞いた者達は、
「徐盛の策は役にも立たない!」とその意見を一蹴しましたが、
孫権だけが徐盛の意見を素直に取り入れて実行に移させたのでした。
孫権より命を受けた徐盛は、
大規模な城壁作成に急いでとりかかったわけです。
そして壮大な城壁が完成した頃に曹丕は到着!
しかし城壁を見た曹丕は「こりゃ攻めるの無理だ!!」と判断し、
戦う事もなく撤退していったのです。
もちろんですが、あくまで防御力が低い偽の城壁であった為に、
そのまま攻め入られていれば城壁の役目をほとんど果たすこともなかったのかもしれませんが、
そうとは知らない曹丕は、見事に徐盛の策に引っかかってしまったわけです。
また曹丕は撤退の際に、
「呉にはまだまだ多くの優れた人材がいるなぁ。
呉を倒すことも簡単な事ではない・・・」
とぼやいたといいます。
曹丕が徐盛の策にはまって撤退したのを確認すると、
「徐盛の策が意味をなさない!」と言った者達を含めて多くの者達が、
「さすがは徐盛殿!」と褒め称えたのでした。
それから間もなく、徐盛はこの世を去ることになります。
まさに最後の最後まで孫権に忠義を通し、国を守り通したのです。
徐盛と蒋欽の逸話
徐盛が黄祖・黄射の対応を任された時の話ですが、
徐盛が蒋欽の部下を、
ふとしたことから処罰しようとしたことがありました。
ただ孫権は蒋欽のこれまでの功績があまりに大きい事から、
徐盛に蒋欽の部下の処罰を中止に・・・
このことがあってからというもの、徐盛は、
「蒋欽から恨まれているだろうなぁ」と蒋欽を恐れたといいます。
それから時は流れて、
217年に曹操が十万の兵士を引き連れて濡須口に攻めてきた時のこと、
蒋欽は呂蒙とともに呉軍の総指揮を任されたのですが、
徐盛も二人の指揮のもとにこの戦いに参加する事になります。
この時に徐盛は以前に蒋欽の部下を処罰しようとしたことがあったために、
蒋欽からなんらかの仕返しをされるのではないかと・・・
非常に恐れていたといいます。
蒋欽は徐盛が部下を処罰しようとしたことを、
全く根にもたないというわけではありませんでしたが、
しかし徐盛の心配とは裏腹に、
蒋欽はそんな小さなことではなく、真剣に国の事を考え、
徐盛が優れた人物であることを認めつつ、
この国には徐盛の力は必要不可欠であると考えを抱いていました。
後に蒋欽の心の内を知った徐盛は、
蒋欽を心から尊敬するようになったのでした。
徐盛と周泰の逸話
先程も述べた濡須口の戦いでは、
呂蒙&蒋欽が呉軍の総指揮をとっていましたが、
徐盛と呂蒙・蒋欽の間に周泰が入り、
徐盛は周泰のもとで実際は戦う事になります。
なので徐盛は周泰の指揮下におかれるわけですが、
この時に徐盛だけでなく、
朱然も周泰の指揮下におかれていました。
徐盛や朱然の共通点として、
二人とも周泰が自分の上に立つ者として認めていないことで、
周泰の命令に従う事はなかったのです。
呉の命運を担った戦いであったはずが、
徐盛や朱然は個人的な感情を優先してることからも問題はあると思いますが、
それぐらい周泰から命令を受ける事が嫌だったようですね。
ただ主君である孫権は、
徐盛・朱然と違って、過去に周泰に命を救われていた事もあり、
周泰に対する信用も並々ならぬものがあったわけで・・・
それを徐盛や朱然に分かってもらう為にも、
孫権はわざわざ危険な戦場を訪れ、
濡須塢という場所で宴会を開いて皆を集めます。
そして皆が集まった所で、周泰の傷の一つ一つを指差して、
「周泰の傷の一つ一つが、
自分を守る為についた傷である!」と語ったのです。
それだけではなく、
「もしも周泰がいなければ、私はとっくに死んでいた!!」
と続けて語ったのでした。
孫権からこの話を聞いた徐盛・朱然は、
周泰の命令に二度と背く事はなくなったといいます。