逢紀(ほうき)

若かりし頃の逢紀は何進に仕えていましたが、

同じく何進に仕えていた袁紹と良好な関係を築いていたのもあり、

 

何進が亡くなって董卓が台頭してくると、それを機に袁紹に仕えるようになります。

 

 

ちなみに後の官渡の戦いで曹操に寝返ることになる許攸も、

このタイミングで袁紹陣営に参加しています。

 

そう考えると、逢紀や許攸は、

袁紹が旗揚げした時から仕える古参の臣下だったといえますね。

官渡の戦いで勝利の立役者になった許攸

冀州奪取策

逢紀が袁紹に仕えてから、逢紀最大の活躍と言えばこれではないかなと思います。

 

これというのは、

袁紹が盟主を務めた反董卓連合が失敗に終わったのち、

 

袁紹は韓馥が治める冀州(鄴など含む)取得したいという野望が芽生えるのですが、

この時に逢紀は韓馥から冀州を奪う方法を編み出します。

 

 

そして逢紀は冀州奪取の計画が練り終わると、

「公孫瓚にまず韓馥を攻めさせましょう!

 

これにより韓馥は公孫瓚の脅威におびえる事となり、

そのタイミングで袁紹殿が公孫瓚から冀州を守るという名目で乗り込むのです!

 

さすれば韓馥から冀州を奪う事ができると思われます!!」

と袁紹に進言したわけです。

 

 

この作戦を聞いた袁紹は、

「なるほど」と納得して実行に移したのでした。

 

そして蜂起の考案した計画は見事に的中し、

袁紹は冀州を表向きは譲られる形で手中に収める事に成功したのです。

横山光輝三国志(6巻104P・105P)より画像引用

 

袁紹が冀州を手に入れたことで、

今後華北全体へ勢力を拡大していくことになるのです。

 

そういった意味でも、袁紹にとって、

逢紀の功績が非常に大きなものだったことがうかがえます。

 

これにより逢紀は、袁紹からの絶大な信頼を勝ち得たのです。

犬猿の仲(逢紀&田豊)

韓馥に仕えていた田豊・沮授は、

韓馥が袁紹に冀州を譲ったタイミングで仕える事になるのですが、

 

どちらも名が通っていた人物でもあり、

田豊・沮授の二人とも(特に沮授)、袁紹軍の中で抜擢されることになります。

 

 

しかし逢紀と田豊は馬が合わず、対立する事も多かったようです。

 

そして二人の仲は、最後まで修復されることはなく・・・

 

 

田豊は官渡の戦い前に長期戦を主張し、

袁紹の機嫌を損ねて牢獄へ繋がれていたのですが、

 

官渡の戦いではまさに田豊の予想した通りの展開になります。

 

結果は言わずもがな袁紹の惨敗!!

 

 

 

この時に田豊を死に導いたのが逢紀でした。

 

「おそらく田豊殿は、今頃笑っておられるでしょう。」

みたいな感じで田豊の悪口を袁紹に進言する事で、

袁紹に田豊を処刑させたわけですね。

 

 

田豊は剛直な性格でもあったために、

袁紹からも煙たがれていたのは事実ですが、

 

袁紹軍の中での大きな功績があった逢紀が、田豊の政策に反対する事が多かったことから、

田豊の意見が通る事が少なかったとも言われています。

 

 

ちなみに逢紀が馬が合わなかったのは、田豊だけでなく審配もでしたが、

 

官渡の戦い後に郭図・辛評によって、

失脚させられていた審配を擁護して救ったという気まぐれも起こしています。

審配 -袁家滅亡の一旦を担ぎながらも、名将として名を残した人物-

逢紀の最後

202年に袁紹が亡くなると、

長男の袁譚派と三男の袁尚派に袁家が分裂してしまいます。

 

袁譚を推したのが郭図・辛評であり、

袁尚を推したのが逢紀・審配でした。

 

 

実際は袁譚と袁尚というより、

この四人の思惑によって分裂したといっても過言ではなく・・・

 

 

そしてお家騒動につけ込んできたのが曹操であり、

攻めてきた曹操を撃退する為にまず袁譚が戦いを挑んだのです。

 

苦戦した袁譚は袁尚に対して援軍を求めたのですが、

袁尚は援軍を送ることなく静観・・・

 

 

 

その結果、袁譚は曹操に敗北してしまう事になります。

 

これに激しい怒りを覚えた袁譚は、

袁尚の命で目付け役として送られていた逢紀を処刑!!

 

 

その後は袁尚もこのままではいけないと判断して援軍を送ったことで、

なんとか曹操軍の撃退に成功したのですが、

 

一度入った亀裂が修復されることはなく、

袁譚と袁尚の争いはっ更に激化し、袁家は滅亡していくこととなります。

 

 

逢紀はそんな狭間の中で散っていったわけですね。

袁譚・袁煕・袁尚 -袁家滅亡を加速させた袁紹の遺児達-