後漢末期の時代は、私腹を肥やすものが跡を絶たず、
生活に困窮する者が続出した結果として黄巾の乱が勃発していますが、
その後も長く戦乱が続いた事により、
戦死したり、餓死する者が後を絶ちませんでした。
「そんな三国時代の経済状況はどうだったのか?」についてここでは見ていきます。
経済状況を測る上でまず大事なものと言えば、貨幣です。
経済と貨幣との関係は切っても切り離せません。
また、三国志を語る前に中国の古代王朝についての貨幣の歴史についても、
軽く知っておく必要があると思います。
目次
三国時代以前の貨幣
まず中国の古代王朝である殷の時代には、
貨幣の代わりとして貝殻を利用した「貝貨」が使用されていましたが、
貨幣として一気に発展をするのが、春秋戦国時代になります。
今では「キングダム」という漫画が出ている事でこの時代を知る人が増えましたが、
それまでは歴史好きが「史記」を読む程度でしか、
その時代を知る背景がなかったこともあり、馴染み深いものではなかったかもしれません。
とにかくこの春秋戦国時代に、青銅の貨幣が一気に広がりを見せます。
ただ春秋戦国時代は、国々が分かれて争った時代であり、
秦の始皇帝が天下統一を果たすまで争い続けていた時代背景があり、
そんな中で生まれた貨幣は、国々によって使用する貨幣が違ったりしました。
まぁ当たり前なことなんですけどね・・・。
とにかくこの時代には、様々な貨幣がつくられるのですが、
国によってそれぞれ違ったりするので使い勝手が良いかと言うと不便なものでした。
例えば分かりやすい例を出すと、戦争に負けた国で使われていた貨幣が、
戦争に勝った国では使われていない貨幣になるなんて事が普通にあったりするからですね。
ちなみに主なものとして、次のような通貨がありました。
- 布貨(ふか)・・・鋤(スコップ)のような形をしたもの。
- 刀貨(とうか)・・・名前から見た通り刀のような形をしたもの。
- 蟻鼻銭(ぎびせん)・・・貝殻の形をした青銅銭で、字が刻まれたもの。
- 圜銭(かんせん)・・・円の中心に〇(丸)や□(四角)といった穴が開けられたもの。
また上の4つの貨幣は、国によって使われるところが様々でした。
とにかくまとまっていなかったんです。
- 布貨(ふか)・・・斉・韓・魏・趙・燕
- 刀貨(とうか)・・・斉・趙・燕・中山
- 蟻鼻銭(ぎびせん)・・・楚
- 圜銭(かんせん/環銭)・・秦・韓・魏・趙
また上記の4つの貨幣以外には、
一部地域では金貨というのも生まれています。
例えば楚なんかでは金が多く取れていたことからも、
圜銭以外に「金餅」や「馬蹄金」といった金貨も使われていたようです。
また貨幣だけでの取引には限度があった為、
米や塩を使っての物々交換も当たり前のように行われていた時代でした。
秦の始皇帝が天下統一を果たすと、
これまで国々によってばらばらであった貨幣の統一を図ります。
もちろん、統一しようとした貨幣は、
秦で使われていた圜銭の一種である半両銭でした。
前漢・後漢時代の貨幣
秦が圜銭の統一を加速化させましたが、
その後秦の圧政に苦しんだ民衆が反乱を起こし、
その反乱の中で劉邦・項羽らが秦を滅ぼして、
最終的に劉邦が項羽を倒して漢王朝を起こしました。
漢の時代に入ったはいいものの、
項羽との争いや多くの反乱が起こっていたこともあり、
財政的に非常に苦しい状況が続いていたこともあって、
劉邦は民間に「お金を作れる権利」を与えて、半両銭を多く作らせていたようです。
劉邦がこの世を去り、
妻であった呂后が漢王朝の独占を計った悪女だったのですが、
「楡莢銭」なる貨幣を発行しました。
しかし楡莢銭は粗悪品でもあったために、
この時に模造品などが多数作られ、スーパーインフレが起こってしまうわけです。
この対策として、「四銖銭」などが作られたりしていますし、
前漢の全盛期を築いた武帝の時代には、「五銖銭」が作られています。
この五銖銭が後漢の時代はもちろん、
三国時代まで使われていく事になったわけです。
三国時代/後漢末期の経済状況(董卓)
後漢末は財政状況が非常に悪化しており、
賄賂の横行が当たり前に行われていた時代でした。
これに反発して起こった反乱が黄巾の乱です。
董卓が献帝を擁して、やりたい放題の政治を行い始めるんですが、
さすがの董卓も漢王朝の財政事情がやば過ぎる事を見過ごせずに対策します。
その対策として、五銖銭を改造して大量に発注するんですが、
外側を削って小さくしたりするという粗悪品でした。
これにより更に経済事情が悪化してしまったなんて言われたりしていますが、
まぁこれは一概に董卓のせいだと言えないところがあります。
董卓が作ったこの五銖銭は、「董卓五銖銭」なんて呼ばれたりしますが、
当時後漢王朝の財政は既に破綻寸前の状況であったからです。
魏の経済・貨幣状況(曹操・曹丕~)
実際董卓だけでなく、曹操でさえ貨幣を発行しています。
董卓五銖銭から五銖銭(漢)に戻す政策を行ったりしていますけど、
いたって効果は薄かったようですし・・・
息子の曹丕が魏を建国した際も、
五銖銭を新たに発行するという政策を行っていますけど、
董卓の時同様に、これも粗悪品でした。
漢王朝時代の五銖銭に比べて非常に小さなものだったからですね。
だから董卓が作ったものは粗悪品だったから、
更に経済が悪化したという人がいますが、
実際はそういう綺麗ごとが通じなかった時代だったというのが正直なところだと思います。
それぐらい経済状況が悪化しすぎていただけです。
董卓がやっても曹操がやっても曹丕がやっても、
もうどうにもならなかったのが実情だったのだと思います。
実際に歴史が証明してますからね・・・
そして戦乱の時代が長く続いていたことが要因の一つでしょう。
そのせいもあり、この時代は貨幣を主に用いるようなものではなく、
物々交換が当時の主流になっていったようです。
まぁ明らかに戦乱ゆえの事情と言えるかもしれません。
粗悪品を作らざるを得なかったもう一つの理由
後漢・三国時代に最大の銅産出地域は、漢中という場所でした。
董卓が後漢王朝を我が物顔にしていた当時、
劉焉が半ば独立したような感じで後漢をなめくさっており、
益州を拠点として活動していた劉焉が、
漢中から中原に向かう桟道を焼いてしまったなんてことがあったと言われています。
その為に、貨幣を作るための銅が圧倒的に少なかったからだと・・・
また魏呉蜀に分かれて争った時代には、
蜀の劉備が漢中を奪っていた事もあって、
銅が魏国内でなかなか入手できなかったのが実情です。
当時最大銅産出地域であった漢中から銅を手に入れれなかったのも、
間違いなく貨幣社会の衰退を加速化させ、
物々交換が主流となった要因の一つと言えるかと思います。
蜀の経済・貨幣状況
劉備が益州を手に入れた直後、
蜀の宝物等をほとんど全て部下にあげてしまったことにより、
極端な財政悪化に見舞われています。
ここで大の劉備嫌いで荊州から益州まで逃げていた劉巴ですが、
益州まで占領した劉備に観念し、ここで味方になっています。
そしてこの劉巴が、財政状況に悩む劉備に対して、
「なければ作ればいいんだよ」と言ってアドバイスしています。
そして劉備は劉巴の言うように貨幣発行を行うんですが、
「直百五銖」と呼ばれるこの貨幣は、1枚で五銖銭100枚分に匹敵するという大銭の貨幣でした。
これにより財政は改善し、数か月のうちに国庫は満タンなったといわれています。
この時に劉備が作った貨幣は、銅を豊富に使った優れたものだったそうです。
その後、銅最大産出地域であった漢中を手に入れた事で、
更に蜀の貨幣状況をよくしてくれたのは言うまでもないでしょう。
そしてこの「直百五銖」は、魏や呉でも通用したということですから、
三国の中では貨幣改革としては、
蜀が一番秀でていたと言えるのではないでしょうか!?
ちなみにですけど、諸葛亮が死んだ後の時代は、
経済力が更に悪化の一途を辿り、
「直百五銖」の大銭を発行できないほどになっていきます。
そして蜀末期には、大銭に刻まれていた「直百」という文字が小さく見える程度で、
非常に小さくなっていったそうです。
呉の経済・貨幣状況
江南の貨幣事情は魏や蜀と少し異なっており、
後漢が使用していた五銖銭はあまり使われていなかったようです。
中原から離れた地域であったこともあり、独自色が出ていたのでしょうね。
そんな呉ですが、
前漢を滅ぼした新の王莽が発行した貨幣に似たようなものを使っており、
その後の記録として236年に「大泉五百」というものを、
238年には「大泉当千」という圜銭のような貨幣が新たに作られ、普及していったそうです。
ちなみに「大泉五百」「大泉当千」は、
圜銭・半両銭や蜀の「直百五銖」と同様の形が用いられています。
また呉の国内でも銅の産出地域も多く、結構な量の貨幣が発行されていたようですよ。
最後に・・・
経済状況で確実に苦しんでいたのは、
領地的に一番恵まれていなかったのは間違いなく蜀です。
だからこそ、貨幣にある程度力を入れざるを得ない背景があったのだと思います。
その結果、貨幣部門で三国時代の中で一番評価を受けたのは、
劉備が発行した「直百五銖」になったわけですね。
呉のことは軽く割愛して、
魏の貨幣状況の改善がほとんど見られなかった背景に、
銅産出地域の少なさと貨幣社会を必要としない様々な国内制度が、
充実していたのも理由として挙げられると思います。
ただ勘違いしてはいけないのは、
魏だけでなく、呉・蜀でも物々交換が多く行われていたという事実です。
それだけ当時の経済事情は緊迫していた時代だったということですね。