日本の教科書等で、平城京(奈良時代)・平安京(平安時代)という言葉を

一度は聞いた事ある人が多いんじゃないでしょうか!?

 

 

ただこの平城京・平安京の原点を探っていくと、

曹操が本拠地としたぎょうにまで遡ります。

 

まぁもう少し詳細に説明すると、平城京の前身である藤原京であったり、

平安京の前身である長岡京も当たり前ですが影響は受けてますね。

 

 

 

今回は平城京・平安京にまで影響を与えた、

曹操の偉業の一つを見ていきたいと思います。

平城京・平安京とは?

そもそもの平城京・平安京について、

知らない方もいるかもしれませんので軽く触れておきます。

 

平城京710年に、

それまで都であった藤原京から遷都が行われた当時の都になります。

 

まぁ普通に奈良時代ですね。

 

 

 

そして784年に平城京から長岡京に遷都が行われ、

 

それから10年後にあたる794年に、

長岡京から平安京へ遷都が行われています。

 

この時代が平安時代になります。

 

 

現在の京都市の市街地は、

この平安京がベースとなった街並みの名残が残ってますね。

 

勿論奈良時代の都であった平城京も名残は残っていますが、

名残が強いのは京都の方になります。

 

 

 

藤原京・平城京・長岡京・平安京すべてにおいて、

共通点としてあげられることは、

 

全体が碁盤の目のように綺麗に区画整理されているということです。

 

 

の理由は「唐王朝の中心都市であった

長安城や洛陽城を真似て作られた」という事を覚えておきましょう。

 

 

この頃の中国の都市の特徴として、

 

一つの都市を城壁で囲んで、都市全体が一つの城となっており、

この点は日本と大きく違いますね。

 

日本の平城京や平安京には、町全体を守る為の城壁なんてありませんからね。

曹操の本拠地であった「鄴」

少しややこしいのですが、

皇帝(献帝)が住んでいる都は許昌(許都)であり、

 

曹操が華北統一する為の本拠地としていた都市が、

「鄴」考えてもらえばよいかなとも思います。

 

 

鄴はもともと韓馥の本拠地で、

袁紹が韓馥から奪った後は袁紹の本拠地でしたが、

 

袁紹没後は、遺児であった袁尚が鄴に本拠地を置いておきました。

 

 

しかし袁尚と袁譚の兄弟争いにつけ込んだ曹操によって奪われてからは、

曹操の本拠地として活動していく拠点となったのです。

 

この鄴で曹操が銅雀台どうじゃくだい(銅爵台)を建設したのは有名な話です。

まぁ実際は銅雀台以外にも、水井台・金虎台なるものもあったんですが、

はっきり言ってしまうと、ほとんど知られていないですね。

 

 

そして曹操は、鄴城を区画等を大きく変化させたのです。

それが息子の曹丕の代に、魏の都になった洛陽にも取り入れられることとなり、

 

次の曹叡の代で、更に増築されたような感じですね。

 

 

そして五胡十六国時代を経て、

隋・唐王朝の長安城へと受け継がれていったのでした。

 

そして日本に伝来し、

藤原京→平城京→長岡京→平安京に取り入れられていく事に・・・

曹操が始めた都市構造とは?

曹操以前の春秋戦国時代や漢王朝時代の都市にも、

一つの都市全体を城壁で囲むという中国都市の伝統みたいなのはありました。

 

 

ただ春秋戦国時代や漢王朝時代は、

 

城壁の中に分散される形で宮殿がおかれており、

民間居住区(民衆)と行政区が入り乱れて存在していました。

 

 

しかし曹操は北部に行政区を集中させ、

 

それ以外の場所に民間居住区をおくことで、

完全に行政区と民間居住区を分けてしまいます。

 

また曹操はそれだけでなく、

鄴都を碁盤の目のように区画整理を行いました。

 

 

この碁盤の目のような都市づくりは、上でも書いた通り、

曹丕や曹叡の洛陽城、隋・唐王朝による長安城へと引き継がれていき、

 

最終的に日本にも影響を与えたわけです。

北魏時代の洛陽城

曹操が始めた鄴城の区画整理は、

五胡十六国時代を終焉に導いた北魏の時代(386年 ~534年)の資料からも確認する事ができます。

 

 

そして隋や唐の時代の洛陽は、

漢王朝(後漢)や曹魏の都であった洛陽の位置から少し変わっていたりしますね。

 

曹操・曹丕・曹叡の時代の洛陽から長安方面に少し近づけたような位置であり、

都市としても規模が拡大されています。

 

 

 

まぁそのあたりのことは置いておいて、

 

なにより曹操が鄴で始めたことが、約1800年の月日を経て、

現在の中国(北京)や日本(奈良や京都)の街並みとして残っているとは不思議な感じがします。

 

 

ちなみにさりげなく北京と書いてしまいましたが、

 

北京は元・明・清の都にもなった都市で、

現在の中国の都でもありますが、

 

ここでも曹操より引き継がれてきた街づくりが継承されています。

 

ですので現在の北京も、碁盤の目のようになっている街並みが確認できるわけです。

最後に余談

曹操がすごい所は、中国の三分の二を支配したという単純なものではなく、

後世の為に沢山のものを遺した点じゃないでしょうかね。

 

それが曹操が偉人たる所以であり、未だに評価される最大の理由かと私は思います。

 

 

ですのえこの鄴城の新たな都市構造の仕組みも、

曹操がやったものの一つに過ぎません。

 

 

 

最後になりますが、曹操に始まった鄴城は、

残念ながら580年に隋王朝を築いた楊堅によって焼かれてしまいます。

 

 

しかし焼かれた跡地に新たな街が出来ることもなく、

 

当時の溝などが発掘や調査によりきちんと確認され、

鄴城遺跡として現在も残っている点でしょうね。

曹操(孟徳) -中華統一以上のモノを未来へ残した超人-