おそらく三国時代の女性の中で、後世に大きな影響を与えた人物は、
今回紹介する蔡琰でしょう。
この時代、女性の名が記録に残ることはほとんどなく、
残っても有名な人物に嫁いだ女性であり、それでも〇氏とか〇夫人とか〇皇后という名だけです。
しかし蔡琰という女性は、
姓名ばかりか字までがはっきりと残っています。
女性の地位が低かったこの時代で、多大な功績を残したからこそ、
その名が後世まで残り続けたのでしょうね。
目次
蔡琰(さいえん/文姫)
蔡琰は董卓に重く用いられた蔡邕の娘ですが、
この時代に珍しく姓が「蔡」、名が「琰」が残っている女性です。
また姓名だけでなく、
字が「昭姫(後に文姫)」ということまで記録として残っています。
蔡琰は蔡邕の娘として、
普通の娘と同じように衛仲道という人物に嫁いでいます。
しかし二人の間に子が産まれなかっただけではなく、
衛仲道が早世してしまいます。
夫が亡くなった後の蔡琰は、蔡邕の実家へ出戻りしています。
蔡邕の処刑&匈奴での生活
董卓が洛陽へ入城して独裁政治を強いると、
蔡琰の父であった蔡邕が重く採り立てられる事となります。
この時までの蔡琰の人生は、夫に先立たれてしまったものの、
ある程度幸せな時だったでしょう。
しかし董卓が王允・呂布に殺害され、
蔡邕が処刑されてしまってからの蔡琰は、辛い人生を歩むこととなります。
ちなみに董卓を殺害し、蔡邕を処刑したのは王允・呂布でしたが、
王允は董卓配下であった李傕・郭汜の残党軍に蹴散らされて処刑されてしまい、
呂布はなんとか長安から脱出しています。
その後も李傕・郭汜による仲違いによる争いが続きますが、
このどさくさに紛れた形で、
蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致されてしまったのです。
そして強制的に劉豹(於夫羅の息子)の妻にさせられます。
それから約十二年間匈奴で過ごすことになったのですが、
その間に二人の子をもうけています。
劉豹は於夫羅の子であり、呼廚泉は叔父にあたります。
ちなみに於夫羅と呼廚泉は兄弟ですね。
また劉豹の子である劉淵は、
漢王朝(蜀漢も含む/後の前趙)の末裔と称して「漢」を建国し、
劉淵とその一族によって「晋(西晋)」は滅ぼされてしまいます。
そしてなんとか江南(建業)に逃れた司馬睿が「東晋」という形で王朝を維持し、
時代は五胡十六国時代へと突入していきます
劉淵&三国志後伝(続三国志)
劉淵は血縁関係は全くないのですが、
「前漢(劉邦)」「後漢(劉秀)」「蜀漢(劉備)」の後継者と称して、
戦乱(五胡十六国時代)に戻すきっかけを与えた人物でもあります。
「魏」に滅ぼされた「蜀」ですけど、
その無念を劉淵が引き継いだような感じになっていますね。
またこの時の話をもとに記した、
「三国志後伝(続三国志)」という小説も、
「三国志演義」と同様に明の時代に書かれ、民衆から人気を獲得しています。
「三国志後伝」は、
蜀漢が263年に滅亡した後の時代が描かれており、
劉備・関羽・張飛・趙雲・諸葛亮の子孫が匈奴の地に集結し、
劉備の孫(劉禅の七男)である劉璩が、
「劉淵を名乗って晋(西晋)を滅ぼす」といった内容ですね。
面白い話なので「三国志」が好きな人は、
一度読んでみると良いかもしれません。
特に「三国志演義」が好きな人にとっては、
劉備の志が受け継がれて西晋を滅ぼすわけですから、
嬉しい展開が描かれた物語だと言えますね。
蔡琰は劉豹の正室?、側室?
蔡琰が劉豹の正室か側室かどちらかで言うと、
「側室であった可能性が高い」と思います。
後に曹操のはからいによって蔡琰の帰郷が許される事になるのですが、
蔡琰を「買い戻す」といった表現が「後漢書」に見られます。
実際に金銀財宝などを劉豹に支払ったりする形で、
曹操は蔡琰を取り戻しているわけです。
もしも妻になった経過がどうであれ、
劉豹の正室であったならば「買い戻す」という表現は、
圧倒的に失礼な事にあたるために、
そういった表記は間違いなくされなかったでしょうからね。
そのあたりから推察しても、
「おそらく側室であったのだろう」と思います。
もしかすると「拉致」という形で連れ去られているわけですから、
側室な立場よりもっと低かった可能性もあるかもしれません。
ちなみに劉豹と蔡琰の間に二人の子供が生まれたのは間違いありませんが、
その二人の名は現在に伝わっていません。
そしてその二人の子のどちらかが、
劉豹の息子で「漢(後の前趙)」を建てた劉淵ではないことだけは確かです。
何故なら「劉淵の母親は呼延氏」と記録が残っていますし、
なにより劉淵の生年日は251年前後だからですね。
十二年ぶりの帰郷
曹操が蔡琰を取り戻そうと劉豹に働きかけた時期は、
袁紹遺児にあたる袁譚・袁煕・袁尚を滅ぼして、
華北の地を手に入れた頃にあたります。
曹操が袁紹遺児を滅ぼして華北を統一したことで
北方民族に圧力をかけれるような状態になったのでしょう。
またその過程の中で、
袁煕・袁尚に味方した鳥丸族討伐(白狼山の戦い)でも勝利を収めてもいますから、
威圧をかける意味では十分な効果はあったと思われます。
ちなみに鳥丸族を率いていたのは蹋頓でしたが、
最終的に虎豹騎を率いていた曹純によって斬り捨てられていますね。
曹操が若かりし頃に面識があった蔡邕が処刑されてしまい、
跡継ぎがいないことを長らく残念に思っていました。
曹操は蔡琰を返してくれる代わりに、
多額の金銀財宝を匈奴に支払ったようです。
既に十二年の月日を経て帰郷した蔡琰ですが、
曹操のはからいで三度目の夫になる董祀と結婚しました。
しかしそ夫の董祀が法を犯してしまう事があり、
処刑が言い渡されたのですが、
もうこれ以上に夫と別れる事を嫌った蔡琰が、
「裸足のまま髪を振り乱して、
曹操に対して夫の助命を懇願した」といいます。
蔡琰の必死の訴えを聞いた曹操は同情し、
董祀の処刑をやめさせます。
そして罪を許された董祀は蔡琰と末永く幸せに暮らしました。
・・・と言いたいのですが、
それから間もなくして董祀が普通に亡くなってしまいます。
そんな蔡琰ではありましたが、
生涯最後(四人目)になる男性と結婚したと伝わっています。
ただその男性の名前は分かっていません。
でも伝わっていないことが、
逆に幸せな最期を迎えたとも言えるかもしれませんね。
「羊祜の育ての親?」「産みの親?」
羊祜といえば、魏晋の名将の一人であり、
陸抗との酒と薬のやり取りは、
上杉謙信と武田信玄の「敵に塩を送る」に似たようなところがあります。
羊祜と陸抗はともに名将として名を馳せており、
晋VS呉の立場として争っていました。
※二人が争った頃には蜀・魏は既に滅亡している
ある時に陸抗が病気になってしまったのですが、
羊祜は調合した薬を呉の陸抗へ送った事がありました。
呉の陸抗はなんの疑いもなく、
敵であった羊祜から貰った薬を飲んだと言われています。
病状が回復した陸抗は、
羊祜へのお礼として酒を届けたといいます。
そして羊祜は陸抗から送られた酒を、
なんの疑いもせずに飲み干したのだそうです。
陸抗と敵でありながら、
国を超えた友情話が残っている羊祜ですが、
実は母親が誰かというのは特定できていません。
しかし「蔡琰が羊祜の実母ではないのかという説」があったりします。
ちなみに一般的には伯母だと言われていますが・・・
羊祜の父親が羊衜であるということは確定しています。
ただ母親は蔡邕の娘としか記載されていません。
しかし蔡邕の娘はというと、
私の知る限り蔡琰以外見当たらないんですよね。
まぁ記録に残らなかっただけで実際にいたのかもしれませんけど、
それなら曹操は蔡琰を蔡邕の跡継ぎがいないからと匈奴から取り戻すでしょうか?
いなかったから曹操は取り戻したと思うんですよね。
そんな羊祜の父であった羊衜が、
羊祜が15歳だった236年になくなってしまうのですが、
それ以降は蔡琰に育てられたとあります。
「実の母親は既に亡くなっていたのか!?
逆に死んでいなかったなら何故育てていないのか!?」
と真っ先に疑問が浮かびます。
しかし私は次のように思います。
「蔡琰が普通に実の母親であったから、
羊祜を育てた!」と・・・
「蔡琰の四番目の男性が不明な点」
「羊祜の母親も不明な点」
「羊衜の再婚相手が蔡邕の娘である点」
これを頭に置いた上で、
蔡琰にとって羊衜が四番目の夫であったならば、
羊祜を産んだのが四十四歳前後(推定)の話になってきます。
「高齢出産にあたるのであり得ない」
という声もあったりますが、
蔡琰が四十歳代で羊祜を産んだ可能性は普通にあると思います。
四十歳代で産んだ人が一人も世の中にいないのなら分かりますが、
実例は山のようにありますからね。
まぁこの論点についてはまた別の機会に話すにして、
『羊祜は蔡琰に「孝」を尽くし、
また蔡琰も羊祜のことを大変愛していた』といいます。
また蔡琰は「羊祜の才能は見事で、
諸葛亮に次ぐような人物に成長するだろう」とべた褒めしています。
「親馬鹿」みたいな感じですが、
それを言ったのは蔡琰ですから、
客観的に見てもそれだけ優れた子だったのでしょう。
後にライバルになる陸抗からも、
「楽毅(戦国時代)、諸葛亮(蜀漢)と言えども
羊祜以上に才能があることはないだろう」
とまで言っていますから、蔡琰の評価は間違っていなかったということになります。
そんな羊祜ですが、
「晋」が天下統一を果たす二年前にこの世を去っています。
ただ280年に呉を滅ぼした作戦は、
実は羊祜が生前に考えていた作戦をもとに決行されたものだったのは余談です。
女流文学の先駆者
蔡琰は幼い頃から博学で、
音律にも非常に精通していました。
ある時に父の蔡邕が弾いていた弦が切れた事がありました。
切れた音を聞いた蔡琰は、
「第二弦が今切れましたわね」と答えたといいます。
それが当たっていたことに驚いた蔡邕ではありましたが、
「偶然であろう」と思いつつも、今度は第四の弦をわざと切ったのでした。
それに対しても蔡琰が、
「今切れたのは第四弦ですね」
と答えたという逸話が残っています。
また匈奴から帰郷した蔡琰が、
「蔡邕殿の書物は今どうなっているのかね?」
と曹操から尋ねられたことがありました。
これに対して蔡琰は
「全ての書物は長安の混乱で焼失してしまいましたが、
ある程度でよろしければ、
私が記憶している内容もそれなりにあります」と答え、
覚えている内容を全て一人で書き上げたといいます。
「それは四百冊を優に超えるほどの量だった」といいます。
ただ蔡邕の書物は四千冊程度あったといわれていますから、
「蔡琰は1/10程度を復活させることに成功した」ということになりますね。
また蔡琰は書家でもあった為に、
「書き上げる際は楷書が良いですか?
それとも草書がいいですか?」と曹操に尋ねた話も残っています。
そして曹操の希望に沿った形で見事に完成させたのですが、
驚くべくことに蔡琰が完成させたものには、
「誤字脱字は一字たりとてなかった」といいます。
消失しているにもかかわらず、
何故に誤字脱字が一字もなかったと言われたのかは不明ですが、
おそらく蔡琰が書き記したもので原本や写本が残っていたものもあったのでしょう。
だから比較できるものを比較した場合に完璧であったということだと思いますね。
そして原本や写本が残っていない書物に関しては、
残っているものが全て間違っていなかったのだから、
「おそらくこれらも誤字脱字はないのだろう」
と判断したのではないかと・・・
他にも蔡琰が残したものには、
「胡笳十八拍」「悲憤詩」といった作品(長詩)があったりします。