三国時代末期の晋の時代、
涼州地域で約10年間にわたって何度も反乱を繰り返した人物がいました。
涼州地域というのは韓遂を筆頭に、
何度も大きな反乱が起きていた地域だったのですが、
三国時代最後に大規模な涼州反乱を繰り広げたのが、今回紹介する禿髪樹機能なのです。
鮮卑族の禿髪部の長、禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)
禿髪樹機能と聞いて、まず思い浮かべるのは、
「なんて変わった名前なんだろう」という事でしょう。
三国時代には変わった名前も沢山ありますが、
その大半はやはり異民族の名前に圧倒的に多い感じがします。
禿髪樹機能もその一人で、彼は北方民族であった鮮卑族でした。
鮮卑族といっても沢山の部族があり、
禿髪樹機能はその沢山ある中の禿髪部の長だった人物です。
ちなみに「禿髪」が姓であり、「樹機能」が名ということになります。
禿髪氏の由来
禿髪氏というのは、もともと同じ鮮卑族である拓跋部から分かれた部族です。
ただ拓跋氏と聞くだけでは、あまりピンと来ないかもしれませんね。
280年に晋が天下統一を果たすのですが、
晋の天下はすぐに乱れて五胡十六国時代へと突入していきます。
そして華北を統一して五胡十六国時代に終止符を打ったのが鮮卑の拓跋氏だったんですよね。
ちなみに拓跋氏が興した北魏は、386年 ~ 534年まで続いています。
一方の天下統一を成し遂げた晋(西晋)は、
317年以降は東晋として南方に逃げ込み、そこで420年まで長らえてはいますね。
そしてこの記事の主人公である禿髪樹機能の先祖は、
もともと後に北魏を起こした拓跋氏と同じであり、拓跋匹孤まで遡ることができます。
その拓跋匹孤が故郷から河西方面に移住したのが始まりと言われており、
拓跋匹孤亡き後は、子であった拓跋寿闐が跡を継ぎました。
そしてこの「拓跋寿闐」が「禿髪寿闐」と名乗ったことから、
禿髪氏が誕生したと言われています。
禿髪寿闐が亡くなった後を引き継いだのが、禿髪樹機能なわけです。
ただ補足を入れておくと、
これらは参考資料が少ない中で推測できる中での情報になりますね。
ちなみに禿髪氏が涼州や雍州近辺に住みだした原因を作ったのは、
間違いなく鄧艾です。
鄧艾が鎮西将軍・都督隴右諸軍事にあった際に、
蜀に対抗する為に多くの非漢民族を国内(涼州・雍州あたり)に引き込んでいるので・・・
そしてこれが後の禿髪樹機能の涼州での反乱に繋がっていくきっかけになったのでした。
禿髪樹機能の反乱
270年に晋が法律の改正を行います。
これに大きな不満を抱いたのが禿髪樹機能でした。
禿髪樹機能は、涼州地域を荒らしまわり、
蜀討伐で功績があった秦州刺史の胡烈・涼州刺史の牽弘を討ち取ったのでした。
そもそも過去の戦いで大きく名を挙げた人物が、
異民族らの反乱に討ち取られること自体が非常に稀な事であったことから、
この事件は司馬炎を大きく驚かせたといいます。
この反乱は長引いたものの、
277年に文鴦らの活躍によって禿髪樹機能は降伏します。
これにて一旦反乱は終焉を迎えたのでした。
少し話がそれますが、毌丘倹と文鴦の父である文欽が反乱を起こした際は、
司馬炎の叔父にあたる司馬師を死においやった原因を作ったのがこの文鴦でした。
もともと魏に仕えていた文鴦ですが、
父の文欽と共に反乱を起こすも、
色々複雑な経緯を経て再度魏に、そして晋に仕えることになった人物ですね。
魏(→晋)に戻ってからは活躍らしい活躍はありませんでしたが、
そんな中で唯一活躍に関する記録が残っているのが、この禿髪樹機能の討伐でした。
禿髪樹機能の最後(禿髪樹機能VS馬隆)
277年に晋に降伏した禿髪樹機能でしたが、
その翌年の278年に再度反乱を起こし、涼州刺史であった楊欣を殺害します。
この時に反乱討伐を任されたのが馬隆で、
馬隆は諸葛亮の用兵術を駆使したりしながら戦い、次第に追い込まれていったのでした。
そして馬隆は時には奇襲を仕掛けたり、
奇抜な策としては、天然の永久磁石と言われている磁鉄鉱を集めて、
禿髪樹機能の鉄器兵を足止めするなど様々な策を弄します。
これによって禿髪樹機能の軍は壊滅状態に陥り、多くの者が降伏しました。
その後の禿髪樹機能がどうなったのかというと、
部下の没骨能に裏切られて討たれてしまっています。
これによって禿髪樹機能の約10年に渡る反乱に終止符が打たれたのでした。
禿髪樹機能の反乱はこれで幕を下ろすわけですが、
鮮卑族を含み異民族との戦いは、晋が天下統一を果たしてからも長らく続き、
様々な異民族が割拠する五胡十六国時代を経て、
鮮卑の拓跋氏によって北魏が起こされるという流れになっていったわけです。