晋が天下統一を果たす三国時代末期に、

諸葛亮の兵法を引き継ぎ、異民族の侵攻を天然磁石を使って破った奇抜な人物がいました。

 

それが今回紹介する馬隆になります。

馬隆(ばりゅう)

馬隆は若かりし頃から知勇を兼ね備えた人物だったようで

馬隆の名が登場するのは251年のことです。

 

249年に令狐愚れいこぐが司馬懿の専横を憎み、

王淩と手を組んで、幼い曹芳に代わって皇族で年長の者だった曹彪を擁立しようと企みます。

 

しかしこの計画の発端を担った令狐愚が病死してしまったことで、

不安に思った味方の裏切りが起こって密告されてしまいます。

 

 

これによって251年にこの計画に関わっていた者達は処刑されてしまうわけですが、

 

既に病死していた令狐愚も例外ではなく、

墓を暴かれて市場にさらされてしまうこととなったのでした。

 

 

とばっちりを避けたいこともあり、

市場に晒された令狐愚の遺体は放置され続け、見るも無残な状態となっていた際に、

 

馬隆が「令狐愚殿は、昔世話になった人だから私が引き取って埋葬する」と嘘をつき、

令狐愚の為に私財を投じて丁重に弔ってあげたそうです。

 

 

当時長く喪に服することがよいとされていたこともあり、

嘘をついて令狐愚の遺体を弔った感じではあったものの、その風習に従って三年間喪に服したのでした。

 

そしてその三年間を経た後は、帰郷しています。

 

そんな若かりし頃を過ごした馬隆ですが、

ここからしばらく馬隆は歴史舞台から消えることとなります。

 

 

次に馬隆が登場するのは269年。

 

264年に蜀は滅び、魏も曹氏の時代から司馬炎の晋へと移っていたころで、

晋が呉を滅ぼして天下統一を果たす為に、優れた人材を推挙するように命令したことがありました。

 

この時に名が挙がった一人が馬隆で、司馬炎に採り立てられたわけですね。

諸葛亮の用兵術(対騎馬戦)を学ぶ

264年に蜀が滅んだのですが、

軍令に通じていた陳勰ちんきょう(陳協)に諸葛亮の兵法の研究するように命じたことがありました。

 

諸葛亮は234年に既になくなっていましたが、

諸葛亮の兵法はその後は姜維によって引き継がれていたこともあり、

 

司馬懿の息子であった司馬昭が、

諸葛亮の優れた兵法を自軍に取り入れようと考えたのでしょうね。

 

 

そして諸葛亮の兵法を研究した陳勰は、

その兵法を晋の近衛軍に取り入れて承継するのですが、

 

諸葛亮の用兵術の中の一つである対騎馬戦の兵術(騎兵戦への対応術)を馬隆が引き継いだのでした。

 

 

諸葛亮は五丈原で夢半ばに亡くなってしまったわけですが、

諸葛亮の兵法は姜維が引き継ぎ、

 

最終的に敵国であった晋(旧魏)に継承されることになったのは、

良くも悪くも諸葛亮の兵法がそれほど優れたものであったことの一つの証明でしょうね。

禿髪樹機能に敗北することを予見

鮮卑の禿髪部の族長であった禿髪樹機能とくはつじゅきのうというのは、

涼州で何度も何度も晋に対して反乱を起こした人物でした。

 

 

涼州という土地柄もあるのでしょうね。

 

昔は韓遂を筆頭に馬騰・馬超しかり、多くの者達が反乱を起こした地域でした。

諸葛亮や姜維の北伐の際も何度となく反乱を起こした地域ですし・・・

 

 

そこで三国時代末期(晋の時代)で暴れまわったのが禿髪樹機能でした。

 

禿髪樹機能は、司馬炎に「蜀呉よりも害が多い存在」と言わしめたたほどの人物であり、

秦州刺史の胡烈これつ・涼州刺史の牽弘けんこうが討ち取られたこともあったほどです。

 

 

そんな禿髪樹機能が278年に反乱を起こした際には、

涼州刺史であった楊欣がこの討伐を任されることになったわけですが、

 

それを聞いた馬隆が、

「楊欣は羌族や鮮卑など北方民族との関係性を築いておらず、

禿髪樹機能と戦えば、楊欣は必ず敗れるだろう」と言ったといいます。

 

結果は楊欣は討ち取られて、晋軍は大敗北を喫したことで涼州を奪われて、

馬隆が言った通りになったのでした。

禿髪樹機能討伐に抜擢された馬隆

涼州刺史であった楊欣が討ち取られて涼州を奪われたことで、

司馬炎は涼州を奪還すべく、対応策を練っていました。

 

この時に「涼州を奪い返せる人物はおらぬか!」と問う司馬炎に対して、

誰も口を閉ざしたままだったといいます。

 

そんな中で馬隆が司馬炎の前に進み出て、

「もし司馬炎様が私を用いて下さるのなら、禿髪樹機能を打ち破って涼州を平定してみせます!」

といった言葉を発します。

 

これを聞いた司馬炎は馬隆に対して、

「どうやった方法でお前は戦うつもりなのだ?」と返します。

 

 

馬隆は答えます。

「私自ら戦う為に必要な兵士を、身分・罪人に関わらず三千人を集めさせて下さい。

そしてこの三千人を率いて、太鼓を鳴らしながら威風堂々と西へ進軍します。

 

その上で司馬炎様の威徳を称えることができれば、

異民族らを打ち滅ぼすことも簡単でしょう!」

 

 

馬隆の返答を聞いた司馬炎は、馬隆を武威太守に任じて、

禿髪樹機能ら異民族の対応にあたらせました。

 

この際に多くの者達が馬隆の抜擢に反対したそうですが、

司馬炎は反対する者達の言葉に耳を傾けることはなかったのです。

 

 

馬隆は禿髪樹機能と戦うために必要な兵集めをするのですが、

この時に強弓・強弩を引く力がある者だけを厳選して集めました。

 

その数は3500人ほどに上ったといいます。

 

 

そして戦いの際に必要な武器も馬隆自らチェックしたのですが、

劣化した武器しか手に入れることができず、この状況を司馬炎に伝えたわけです。

 

これを聞いた司馬炎は、

馬隆に対して戦いに必要な軍需物質を三年分提供してあげたのでした。

 

こうして馬隆は戦う準備を万全に整えることに成功!!

禿髪樹機能VS馬隆

戦う準備を完全に整えた馬隆は、

279年11月に禿髪樹機能らがいる西に向けて軍を進めたのでした。

 

それに対して馬隆の進軍を聞いた禿髪樹機能は、

数万人の兵士を引き連れて馬隆(晋軍)討伐に乗り出します。

 

禿髪樹機能の作戦は、兵士の一部を砦を守らせ、

馬隆の部隊を防いで、他に潜ませた伏兵によって挟み撃ちにするというものでした。

 

禿髪樹機能の作戦はうまくいくものの、

ここで馬隆は諸葛亮の対騎馬戦の用兵術を持ち出します。

 

 

馬隆は諸葛亮の八陣図の中の「車蒙陣」を使うのですが、

 

これは車の片方の側面に板を立てて盾に利用することができるというもので、

馬隆は前方と後方を異民族に挟まれている状態という事もあって、急いで作り出したわけです。

 

それだけでなく、車の前方に戈・戟の武器をとりつけた「鹿角車」を作り、

鹿角車で敵に侵入させないように陣の外側を回らせました。

 

 

徹底的に守備を固めながらも弓兵・弩兵を使いつつ反撃していきます。

 

この馬隆の対応によって優勢だった禿髪樹機能らでしたが、

次第に追い込まれていくこととなります。

磁石を武器に使った馬隆

禿髪樹機能の作戦にはまった形となっていた馬隆でしたが、

諸葛亮の対騎馬戦の用兵術を用いることで次第に異民族を押していったのです。

 

そして禿髪樹機能らの隙をついて奇襲を仕掛けることも行っていったのですが、

戦いの中で奇抜な策を使ったこともありました。

 

 

禿髪樹機能らの部隊は鉄騎兵と呼ばれるもので、

馬や兵士に鉄鎧を着せて、剣や弓に強い作りになっていたのですが、

 

これを逆に利用し、磁石を利用したのです。

 

実際には、天然の永久磁石と言われている磁鉄鉱なんですが、

この磁鉄鉱を大量に馬隆は集めます。

 

この磁鉄鉱の磁力によって禿髪樹機能ら鉄騎兵は身動きがとれなくなります。

 

 

一方の馬隆軍は、皮の薄いサイ鎧を着させたていたので

磁鉄鉱の影響を受けることはなかったのですが、

 

禿髪樹機能は「馬隆とは神か悪魔か・・・」

と自分たちが身動きが取れない中で普通に動ける馬隆軍に驚きました。

 

これらの馬隆の見事な作戦もあって、禿髪樹機能らは大敗を喫し、

降伏する者が後を絶たなかったといいます。

 

最終的に禿髪樹機能は、部下の没骨能に討たれたことで終わりを迎えます。

 

 

禿髪樹機能が約10年にわたって反乱を何度も起こし、

最終的に部下によって討ち取られることで幕を下ろすという生涯は、

 

韓遂と完全に被ってしまいますね。

 

韓遂も生涯反乱を起こし続け、最終的に部下によって討ち取られているわけですから・・・

反乱に生涯を捧げた男「韓遂」

司馬炎を喜ばせた勝利報告

禿髪樹機能らの異民族討伐に見事に成功した馬隆でしたが、

激戦だったこともあり、馬隆は中央へと戦局を報告する余裕がなかったのでしょう。

 

全力投球で禿髪樹機能らにあたっていたからですね。

 

 

そういうこともあり、中央では既に馬隆が討死しており、

敗北してしまったとい噂も流れたようです。

 

しかしその後、馬隆からの勝利報告が届くと司馬炎は大変喜びました。

 

 

そしてかつて馬隆を異民族討伐に抜擢することに反対していた者達を集め、

 

「もしお前達の言葉を聞いていたならば、涼州の地を奪還することはできなかった」

と言い、大きな成果を上げた馬隆や兵士それぞれに爵位や褒美を与えて報いたのでした。

その後の馬隆

280年にこれまでの度重なる反乱などで荒廃していた涼州西平郡を復興すべく、

禿髪樹機能との戦いで大きな功績をあげた馬隆を西平太守として任じます。

 

実際禿髪樹機能の反乱は終わったものの、

異民族らがまだまだ好き勝手にしていた地域でもあったことも荒廃の原因でした。

 

 

馬隆が太守に任じられたことで警戒した異民族に対し、

馬隆は兵士に田畑を耕させて、異民族討伐をする気などないように見せます。

 

この様子を見た異民族らはすっかり油断をしてしまったのでした。

 

 

馬隆は異民族が油断をしていると分かると、

一気に進軍して異民族らを見事に駆逐!!

 

そして馬隆が西平太守を任じられている間は、

一度たりとも異民族が侵入してくることはなくなったのでした。

 

 

その後も馬隆は西平太守を長らく務めるに従い、馬隆の名声は非常に大きくなります。

 

それを恐れた者が「年老いた馬隆ではこれ以上任務にあたることは不可能だ!」と諫言したことで、

馬隆は西平太守から外されてしまいます。

 

しかし、馬隆が西平太守で亡くなったと知った異民族らは、

反乱を起こすべく集結しだしたのでした。

 

この現状を恐れ、急いで馬隆を西平太守に戻すのですが、

馬隆が太守に戻ったと知った異民族らが反乱を起こすことはありませんでした。

 

そして馬隆は死ぬまで西平太守を務め、290年にこの世を去っています。