歩騭といえば呉の重臣の一人で、
呉の中にあって一代で地位を確立した人物の一人でもあります。
今回はその「歩騭!」というわけではなく、
その息子である歩協・歩闡の二人にスポットをあてるわけですが、
悲しい末路を歩んだ二世の二人でもありますね。
歩協(ほきょう/歩騭の長男)
歩協は呉の重臣である歩騭の長男で、
歩闡の兄にあたる人物です。
父親である歩騭が亡くなると、
歩協は父親の爵位である臨湘侯を引き継いでいますね。
その後に歩協は撫軍将軍に昇進!
ちなみに歩協が撫軍将軍に任じられた経緯としては、
戦いによる功績からのようですが、
ただどの戦いでどういった功績を歩協があげたのか、
そのあたりの戦いの詳細は今に伝わっていません。
そして蜀が魏に滅ぼされた翌年の話ですが、
歩協は陸抗らと協力して、
旧蜀の永安城を攻め取るべく出陣!
しかし元蜀将で呉に降ることを恥とした羅憲の抵抗にあって、
歩協らは撤退を余儀なくされています。
そしてそれから少しして歩協は亡くなってしまいますが、
その後の歩一族が歩んだ悲惨な未来を見なくて済んだと考えると、
別の意味で良い時期に亡くなったと言えるかもしれませんね。
歩闡(ほせん/歩騭の次男)
兄の歩協が亡くなると、
歩闡は歩協の跡を引き継いで西陵督となります。
また歩闡は昭武将軍にも任じられ、
西亭侯に封ぜられています。
ちなみに軽く補足ですが、
歩騭・歩協と引き継がれた臨湘侯の爵位だけは、
歩協の長男である歩璣が継承していますね。
そして孫晧が西陵督であった歩闡を繞帳督に任じたことで、
武昌に戻ってくるように命じられます。
これに大きな不安を抱いたのが歩闡で、
孫晧によって多くの者達が理不尽に誅殺されていたからこそ、
歩闡が抱いた感情は正常な感情だったわけです。
そして歩闡が最終的に下した判断は、
「今回は自分自身が、
何か言いがかりをつけて誅殺される!」
と考え、最終的に反乱!!
歩闡は西陵城を固く閉ざし、
歩協の息子達(歩璣・歩璿)を人質として司馬炎の元へと送り、
歩闡は晋に降伏します。
なにより歩闡の降伏を喜んだのは司馬炎で、
歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司に任じます。
またそれだけではなく、歩闡を侍中に任じていますね。
他にも交州牧を兼任させ、宜都公にまで封じたのの、
孫晧に討伐を命じられた陸抗によって西陵城は陥落!!
ただ歩闡も西陵城陥落まで何もしなかったわけではなく、
晋に援軍を求めたり、
異民族にも私財を投げ打って援軍を求めたりしています。
ただ司馬炎によって羊祜(車騎将軍/荊州軍総司令官)・楊肇(荊州刺史)・徐胤(巴東監軍)を救援に送りますが、
二人が陸抗に破れたことで西陵城が完全に包囲され、
その結果として異民族も歩闡にほとんど協力できない中で、
西陵城が陥落したという流れになりますね。
これにより歩闡をはじめとして一族皆殺しに・・・
ただ歩闡にとっての唯一の救いとなったのは、
司馬炎に人質として送っていた甥の歩璿(歩協の息子)が生き残ったことぐらいかもしれませんね。
ちなみに同じく人質として送られた歩璣がどうなったかですが、
司馬炎により監江陵諸軍事・左将軍に任じられただけでなく、
散騎常侍・廬陵太守をも任せられます。
またそれだけでなく、歩璣は江陵侯にも封じられたことで、
結果として歩闡が散った西陵に戻っていたのです。
なので歩闡同様に歩璣もこの戦いで命を落としまっていたわけですね。
余談
最後に余談的なお話ですが、
歩闡と陸抗の戦いを、西陵の戦いと言いますが、
この「西陵」の地はもともと「夷陵」と呼ばれていました。
「夷陵」はかつて陸遜が、
劉備を破った夷陵の戦いでも知られている地名ですが、
夷陵の戦い以降に「夷陵」から「西陵」に名前が変更されたという経緯がある場所で、
この地は呉の重要拠点であったことからも、
呉の重臣であった歩一族が任されていた地域だったのです。
後はこの戦いで陸抗に敗れてしまった楊肇という人物ですが、
この戦いでの責任を追及されて免官させられています。
その後は勉学に励んだようですが、二年後にあっさりと病死。
一方の総司令官であった羊祜ですが、
車騎将軍から平南将軍に降格で済んでいますね。
本来なら羊祜の方が総司令官として罪も大きいような気もしますが・・・