蜀の皇帝であった劉禅の佞臣といえば、
宦官であった黄皓とイメージされる人も多いかもしれませんが、
一方で呉のラストエンペラーとなった孫晧の佞臣といえば、
万彧の名があがるかもしれません。
黄皓から見れば少しかわいく見えたりはしますけどね。
万彧(ばんいく)-呉の佞臣-
万彧 は孫晧に抜擢された人物ですが、
もともと名家出身者が多い呉の中にあって、
低い身分の出身であった万彧は、軽んじられる事が多かったようです。
そんな万彧ですが、二人が知り合うきっかけになっとのは偶然の事でした。
孫休が即位した際に、孫晧が烏程侯に封じられたことで現地に赴くわけですが、
そこの県令を任されていたのが万彧だったのです。
二人はこの時に親密な間柄になったといいます。
万彧の暗躍×孫晧の即位
そして孫休が若くして亡くなると、その遺言に従って息子が跡を継ぐ予定だったのですが、
ここで余計な事をしたのが万彧でした。
孫休の息子が幼過ぎる事を理由に、
孫休の遺言に逆らう形で、
仲がよかった孫晧を跡継ぎに推したのです。
魏によって蜀が滅ぼされていたこともあり、
時代の荒波を駆け抜けることができる人物が呉に必要だったことも事実でした。
そして当時の孫晧の評価は比較的に高く、
万彧の考えに丁奉が乗っかったことで、
濮陽興・張布も孫晧即位に同意する流れになったのでした。
孫休の正妻であった朱皇后も、
呉国を想う気持ちから息子の即位を取りやめたのですが、
これが逆に朱皇后への不幸を呼び込むことになろうとは・・・
とにもかくにも万彧のお陰もあって即位できた孫晧は、
王蕃・郭逴・楼玄と共に万彧を常侍として重用します。
しかし即位してからの孫晧は暴政をふるう始末・・・
これを後悔したのが、
万彧の話に乗ってしまった濮陽興と張布だったのですが、
その事実を知った万彧は、孫晧に迷わず告げ口!
これにより二人を失脚させ、
最終的に一族皆殺しにされてしまいます。
大出世を果たした万彧×反比例する万彧への評価
孫晧から信頼されていた万彧は大出世を果たし、
とうとう右丞相に任じられることとなります。
ちなみに右丞相と対をなす左丞相には、
陸遜の一族である陸凱が任命されたのですが、
陸凱は孫晧の暴政を非難すると同時に、
「万彧の才能は非常に乏しく、
もともと低い身分であった万彧は、
運よく大昇進を遂げただけの人物である!」
と陸凱から痛烈に批判されたりもしていますね。
陸凱は孫晧を恐れることはなく、孫晧が間違えてると思うことはズカズカと諫言し、
その中で孫晧廃立計画すら立てた人物ですね。
多くの者達が孫晧によって処罰されていく中で、
陸凱はそういう態度をとりながらも、
孫晧は一目置いていたところがあり、最後の最後まで天寿を全うしています。
万彧の最後
267年には晋への対策として、
万彧は巴丘の守備を任されることになります。
そしてその翌年に万彧は襄陽(荊州)を攻撃しますが、
田章・胡烈によって普通に敗北していますね。
その後は首都である建業に戻ることになった万彧でしたが、
最終的に孫晧の機嫌を損ねたことで、二人の間柄は冷めていくことに・・・
そして失意の中で、彧は亡くなったといいます。
そんな最後を迎えた万彧ですが、
「三国志演義」にも一応登場している人物になります。
ただ三国志演義での万彧の扱いは雑なもので、
恐怖政治を行う孫晧によって殺された一人の臣下
としての立ち位置でのみの登場でしたね。
万彧に毒酒を送った説(江表伝)
「江表伝」は虞溥によって書かれたものですが、
これは呉の歴史を中心に書かれたもので、
孫堅時代から孫晧の時代まで書かれてあるものになります。
そこには孫晧が突然に華里へと出かけたことがあったようで、
万彧は丁奉・留平に次のように語ったと言います。
「急ぎの用事もないくせに華里へわざわざやって来た。
もしこのまま孫晧様が、
首都に戻らないようなことでもあれば、
孫晧様を置いてでも我々だけでも都に戻りましょう」と・・・
その話を伝え聞いた孫晧の怒りに触れた万彧・留平は、
毒酒を送られたといった話が残っています。
ちなみに毒酒を送られたのは万彧・留平のみで、
丁奉にはお咎めなしという依怙贔屓!
孫家四代に仕えた重臣の丁奉を罪に問うことは、
孫晧にとってもできなかったとみるのが自然な流れでしょう。
ただ丁奉が死んだ後に、息子である死に追いやられていますけど・・・
そして毒酒を飲んでしまった万彧・留平でしたが、
毒の量が少なすぎた事で、二人は奇跡的にも死を免れます。
しかし毒酒を飲まされたことに大きなショックをうけ、
失意の中で万彧は自害し、
一方の留平はというと万彧とは真逆に、憤慨して亡くなったといいます。