天下三分の計
「天下三分の計」とは、
中国を3つに分けて力を均衡させるというものです。
これは孔明が、「曹操が支配する魏、
孫権が支配する呉と対抗する為には、
益州を手に入れるしか選択肢はない」と劉備に助言したと言われています。
その後の劉備は荊州南部を獲得し、
孔明が言った通りに益州の地を手に入れ、
これにより天下三分の計が実現させました。
「天下三分の計」を提唱した本当の人物
おそらく三国志ファンの方の多くは、
「天下三分の計=諸葛亮(孔明)」と考えてる人が大半だと思いますが、
実際はそうじゃないんですよね。
「じゃー誰なんだよ!?」って事ですけど、
結論から言うと、魯粛(ろしゅく)という呉に仕えていた人物です。
横山光輝の三国志演義では、
孔明に弄ばれるような扱いで魯粛は描かれていますが、
実際の魯粛はかなり優秀な人物なのですよね。
お人好しでなキャラクターで孔明に弄ばれてるのは、
三国志演義だけの話です。
実際は、主人である孫権でさえ、
魯粛には頭が上がらなかった程の大人物でした。
また魯粛は劉備と同盟を結ぶことに尽力した人物でもあり、
劉備との同盟に尽力したのは赤壁の戦いだけの為ではありません。
その延長戦上に、
「天下三分の計」の実現を目指したからに他ならなかったのです。
天下を三つに分ける事で均衡が保たれ、
曹操への圧力を左右から分散させる狙いがあったのです。
もしも魏と呉だけであれば、この赤壁の戦いを乗り切ったとしても、
将来的に力負けするのは目に見えていたからですね。
当時の情勢を考えれば、
孔明でなくても「天下三分の計」が十分考えられるものでした。
三国志演義では、蜀漢を正統とされたからこそ、劉
備に仕えた孔明の優秀さをアピールする為に、
様々なフィクションが盛り込まれていますが、
実際の孔明の活躍は、それほど目立ったものではありませんでした。
十万本の矢とか東南の風とかその代表なわけで・・・
「三国志正史」を注釈した裴松之の言葉
裴松之は、東晋末~宋の時代を生きた政治家です。
晋が280年に三国を統一するので、約100年後の人物です。
裴松之は、歴史家の一面も持っており、
陳寿の「三国志正史」に注釈を加えた人物でもあります。
その裴松之も次のように言っています。
「あたかも孔明が天下三分の計を唱えたと言っているが、
そんな話はもっての他だ!」と・・・
三国志以前の天下三分について
孔子の著した「論語」には、
周の文王についての記載が残っています。
「天下を三分し、その二つを有しながら殷に仕えた」と・・・
また司馬遷の「史記」には、項羽・劉邦の時代に、
劉邦に仕えていた韓信に対して蒯通という人物が次のように話しています。
「天下を三分し、
鼎(かなえ)の三つの足のようにするべきだ!」と言っています。
三国時代より前から、天下三分の発想はありましたし、
孔明や魯粛も、「論語」「史記」を参考にした可能性が高いです。
何より当時の情勢に精通している者ならば、
例え孔明や魯粛でなくとも、この発想自体は考えられるものだったのは間違いないでしょう。