三顧の礼(さんこのれい)
横山光輝三国志(21巻188P)より画像引用
「三顧の礼」とは、
年上である劉備が、年下である諸葛亮(孔明)の元を三度も訪れて、
仲間に引き入れたことからできた言葉になります。
「礼を尽くす事の大事さ」を教えてくれる言葉でもありますね。
諸葛亮を手に入れた事で、劉備の人生は大きく変わり、
益州を手中に収め、
「天下三分の計」を成し遂げる事に成功しています。
最終的に三国時代の一角である蜀漢の皇帝にまで上り詰めたのでした。
劉備が孔明の存在を知った経緯
横山光輝三国志(21巻74P)より画像引用
劉備の人生は負けに負けていた人生で、
旗揚げして以来、公孫瓚・陶謙・曹操・袁紹と各地の群雄を渡り歩いており、
そして今回流れ着いた先が、
諸葛亮との運命の出会いが待ち受ける荊州でした。
ここで「水鏡」との呼び名を持つ司馬徽に出会い、
劉備はこれまでの自分の人生についての悩みを打ち明けたます。
「民衆を助けたいけれど、
自分にはその力もなく、どうしたらよいかも分からない!」と・・・
これを聞いた司馬徽は、
「もしも伏龍か鳳雛のどちらか一方だけでも味方にできれば、
劉備殿が天下を取る事も夢ではない」と劉備に告げたのでした。
ただ伏龍か鳳雛が誰なのかは教えずに・・・
それから少しして司馬徽の弟子でもあった徐庶が、劉備に仕官するわけですが、
曹操が徐庶を手に入れたいとのことから。「贋書の計」で徐庶を引き抜いてしまいます。
その際に徐庶が去り際に、
「伏龍は諸葛亮、鳳雛は龐統である」と教えてくれたのです。
曹操の元へと去らなければいけない徐庶なりの置き土産だったわけですね。
一度目の訪問
横山光輝三国志(21巻126P・127P)より画像引用
劉備は諸葛亮の元を訪ねるために
諸葛亮が住んでいると言われた隆中の庵へと足を運ぼうとします。
この時に劉備の側近であった関羽と張飛は、
「相手は若造なのだから、ここに呼び出していいのではないか?」
と劉備に告げたのですが、
これに対して「そんな失礼な事は私にはできない」と劉備は返答し、
関羽と張飛を連れて隆中の庵まで足を運んだのでした。
しかし諸葛亮は丁度出掛けていて不在だったのです。
劉備は残念に思いながらも、今回は縁がなかったと引き返しています。
二度目の訪問
横山光輝三国志(21巻154P・155P)より画像引用
劉備は一度目の訪問から少しして再び諸葛亮の元を訪ねます。
しかし二回目も一回目同様に不在で、
この時は諸葛亮の弟である諸葛均が対応するわけですが、
「兄上はいつ帰宅するか分かりませぬ」との言葉を貰った劉備は、
残念な気持ちになりつつも、再度引き返したのです。
ちなみに諸葛均もまた後に蜀漢に仕えたということは、記録で残っている人物になります。
三度目の訪問
横山光輝三国志(21巻186P)より画像引用
関羽や張飛が苛立つ中で、再び劉備は隆中の庵を訪れます。
これで三度目の訪問になるわけですが・・・
今回は諸葛亮は帰宅していたので、
劉備のみ中に案内され、関羽と張飛は庵の外で待つことにします。
ただ諸葛亮は丁度休んでいたのですが、
劉備は諸葛亮が起きるまで待っていました。
ちなみに中の様子が見えた張飛は、劉備が待たされている光景を見て激怒し、
「この家を燃やしてやろうぞ。そしたら流石に起きるだろう!」と声を荒げます。
流石にこれは関羽から注意されて止めてますね。
それから少しして諸葛亮が目を覚ますと、
起きるまで待っていてくれた劉備の姿に感銘を受け、劉備に仕える事を決めたのでした。
ちなみにこの時に劉備と諸葛亮が語ったとされている「天下三分の計」は、
隆中の庵で話したことから「隆中策」と呼ばれることもありますね。
この逸話から目上の者が目下の人間に対して礼を尽くすことを
「三顧の礼」と呼ぶようになります。
また礼を尽くされる立場、今回で言えば諸葛亮の立場から、
「三顧の恩」という呼び方をすることもあるようです。
ちなみに日本(戦国時代)では、
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が天才軍師と知られる竹中半兵衛を、
「三顧の礼」で迎えたという話が残ってたりしますね。