髀肉之嘆/髀肉の嘆(ひにくのたん)
蒼天航路(17巻28P・29P)より画像引用
「髀肉之嘆」とは、
「髀肉の嘆を託つ」とも「皮肉の嘆」とも呼ばれたりします。
この言葉は、「蜀志」先主伝のエピソードがもともとの由来になっており、
劉備は自らの才能を発揮できず、
功名を立てる機会すら得られないことに嘆いたことから生まれた言葉になります。
この時の劉備は荊州の劉表のもとに身を寄せていましたが、
平和な日常の中で馬にすら乗る機会も少なくなり、
自分自身の太ももに贅肉がついてしまった事を嘆いたというわけです。
蒼天航路の「髀肉之嘆」の描写は、
劉備だけでなく張飛も巻き込んでの記載になってますね。
平和な生活&「髀肉之嘆」の誕生
劉備は公孫瓚→陶謙→曹操→袁紹といったように、
長らく流浪の人生を送っており、
この時の劉備は、汝南での戦いに敗れてしまったことで、
荊州の劉表の元へと流れ着いていた状況だったのです。
ただ荊州はこれまでもですが、戦乱を避けてきた地域であり、
劉備自身も荊州の平和にのんびりと浸かっていました。
ある時に劉備は、自分の太ももの内側を見ると、
贅肉がついている事に気づき、涙したと言います。
その涙を見た劉表は
「劉備殿、どうなされたのじゃ?」と劉備を気遣ったわけです。
そして劉備は静かに口を開き、
「長らく戦場を駆け回っていた頃は、
太もものに贅肉がつくなんて考えた事もありませんでした。
それが今では太ももの内側に、こんなにも贅肉がついていしまいました。
私はもう年齢も若いわけではありません。
それなのに未だに志の一つすらかなえられていないからです。」
と劉表に返答したのでした。
これが「髀肉之嘆」という四字熟語になったわけです。
「髀肉之嘆」からの逆転劇
蒼天航路(34巻53P)より画像引用
劉備は「髀肉之嘆」からも分かる通り、
荊州で平和に過ごす中で、自分の境遇に涙したわけです。
しかし荊州での平和な日々は、劉備に多大な恩恵を与えたのは事実です。
それは間違いなく「荊州の人材」ですね。
「天下三分の計」を劉備に授けた諸葛亮を筆頭に、
龐統・馬良・黄忠・魏延など優れた人物も劉備に仕える事となります。
もちろんですが、徐庶との出会いも忘れてはいけません。
もちろん曹操の南下であったり、赤壁の戦いであったりと、
難しい戦いへも巻き込まれていくわけですが、
時代の流れは劉備へと味方していく事となったのは周知の事実ですね。
赤壁の戦いで勝利した劉備は、
荊州南部四郡攻略から益州攻略へと地盤を確立させていき、
漢中王を経て、最終的に蜀漢を興し、
皇帝にまで上り詰めるわけですから人生どうなるか分からないものですね。