目次
劉備敗北×曹操に降った関羽
曹操に反旗を翻して徐州で独立した劉備でしたが、
曹操に攻め込まれ、あっさりと敗北していしまいます。
敗北した劉備は妻子も部下も見捨てて袁紹のもとへと逃亡していきます。
ここからしばらく張飛とも関羽とも離れてしまうことに・・・
ただこの時の関羽はまだ城を守っていましたが、
劉備の安否も分からなくなっていたこともあり、
劉備の妻子を守る為に曹操に降伏ししていますね。
曹操としても、
「関羽を自分の臣下にしたい!」
と考えていたからこそ、この時の喜びは計り知れなかったといいます。
敵勢の中での劉備の発見
曹操と袁紹との戦争が起こり、関羽は曹操軍の一員のとして大活躍をします。
一番の成果は、袁紹軍の猛将である顔良を討ち取り、戦の流れを変えたことです。
ちなみに演義では、文醜も討ち取っている事になっていますが、
それはあくまで演義だけの話です。
袁紹軍との戦いで大活躍をした関羽でしたが、
その戦の最中に袁紹軍に身を寄せていた劉備を見つけたのでした。
関羽の千里行
劉備を見つけた関羽は、
すぐさま曹操のもとを去る許可を取ろうとするも、
全く曹操と会う事ができませんでした。
なぜかというと劉備のもとに戻るのを防ぐため、
関羽と会わないように「面会謝絶」の札をかけてたからでして・・・
曹操に会えないと判断した関羽は、
自分の中でも曹操への恩は十分に返したとの判断から、
これまで曹操から頂いた金銀財宝などはきちんと屋敷に残し、
そのまま曹操のもとから去るのでした。
赤兎馬と髭袋だけは貰ったままでしたけど(笑)
ここで問題が発生します!
劉備の元に行く際に、5つの関所があったんですが、
そこを通過する為には、通行手形を見せないと通過できないものでした。
その為に関所で通してもらえず、
関羽は五つの関所を守っていた守将達を仕方なく斬り捨てて強行突破します。
最後に五つの関所を突破した関羽でしたが、そこに怒りで全開の夏侯惇が追ってきます。
そして関羽と夏侯惇の一騎打ちが始まりますが、なかなか決着がつかず・・・
そんな最中、曹操から関羽通行の許可を伝える為に、張遼がやってきて二人の間を仲介!!
正式に許可を貰った関羽は、最終的に張飛と汝南で合流し、
その後に劉備とも合流することに成功していますね。
これが有名な関羽の千里行の話でした。
五つの関所と守将と経緯
東嶺関(とうれいかん)
第一の関所
守将は孔秀(こうしゅう)
「三国志演義」に登場する架空の人物。
経緯
関羽が通行手形を持っていなかった為、
孔秀は関羽らを通行させようとしませんでした。
無理やり通ろうとする関羽に対して、孔秀は妻子の人質強要をしてきます。
これに激怒したのは言わずもがな関羽で、
一刀両断のもとにに斬り殺され、関所を突破されてしまうのでした。
洛陽(らくよう)
第二の関所
守将は韓福(かんふく)
「三国志演義」に登場する架空の人物。
経緯
東嶺関の孔秀が関羽に斬られたと聞き、
部下と共に関羽を捕らえる作戦会議を開きます。
韓福は作戦を実行し、
矢を放って関羽の左肘を射抜くことに成功!
しかし関羽はその傷をものともせず韓福を斬り殺し、関所は突破していくのでした。
沂水関(きすいかん)
第三の関所
守将は卞喜(べんき)
「三国志演義」に登場する架空の人物。
経緯
関羽が二つの関所を突破したことを知ると、
関羽を殺すために、鎮国寺という寺に伏兵を忍ばせます。
しかし寺の僧侶である普浄が、関羽に密告した事で伏兵が露見!
最後は流星鎚という武器を飛ばして戦いますが、
関羽に斬り殺され、関所を突破されてしまいます。
滎陽(けいよう)
第四の関所
守将は王植(おうしょく)
「三国志演義」に登場する架空の人物。
経緯
関所突破を繰り返す関羽に対して、
王植は関羽の宿舎を焼き討ってしまおうと計画を立てます。
そして部下である胡班(こはん)に焼き討ちの命令をしますが、
胡班は関羽にこの事を知らせたのでした。
※三国志演義にのみ登場する人物+胡班は後に劉備に仕官
そして胡班の道案内により、劉備の妻子を連れて関所を通行!
しかし、これに気付いた王植が追撃してきますが、
あっさり関羽に切り殺されてしまいました。
滑州(かつしゅう)
第五の関所
守将は秦琪(しんき)
「三国志演義」に登場する架空の人物。
経緯
三国志演義では黄河の渡し口で、
秦琪が船で渡ろうとしている関羽と出会い、
通行手形の提示を求めました。
関羽は通行手形を持っていなかった為、
見せる事を拒んだことで激しい口論に・・・
最終的に秦琪は関羽に斬りかかりましたが、
見事なまでに返り討ちにあって殺されてしまうのでした。
秦琪が殺されたのを目の前で見た兵達は、
関羽のために必要な船を急ぎ用意したといいます。
千里行の不自然なルート
関羽は曹操の本拠地である許昌を出発しています。
※許昌=現在の河南省許昌市
最初に関羽が通った関所は、
孔秀が守る東嶺関(現在の河南省許昌市禹州)でした。
次に通ったのが韓福が守る洛陽(現在の河南省洛陽市)。
ここまでは許昌から見て西に進んでいたことが分かります。
三番目の関所は、卞喜の護っていた沂水関(現在の山東省臨沂市)。
今まで西に進んでいたのに、ここでいきなりUターンして東に進路を変更しています。
そして四番目の関所である滎陽(現在の河南省鄭州市)。
最後の関所は滑州(現在の河南省安陽市)。
ここは滎陽から北東の位置になり、150km程度の距離になります。
演義では黄河を渡る前にあるような位置づけになっていますが、
ここは普通に考えると、黄河を渡った先になります。
完全に袁紹の管轄下です。
曹操の武将が守っている事が、そもそもおかしな話になってきます。
ちなみに出発点が許昌である事を考えると、
許昌から北北東に滑州が存在しているため、
最初に西の洛陽に寄り道した意味が完全に不明です。
また西に行ったり、東に行ったりと、意味不明な遠回りしたルートになっています。
不自然なルートから考えられる可能性
当時袁紹と曹操は、黄河を境に争っていましたから、
黄河を渡れるルートを探していた為、西に東に右往左往した可能性はあります。
その点を考慮すると、第一の関所である東嶺関~滎陽はまだ納得ができます。
ただそう考えた場合でも一つだけどうしても解決できない問題があります。
それは第五の関所である滑州です。
さすがに袁紹管轄下にあるところに、
曹操軍の関所があるのはおかしな話だからです。
この点から考えられることは、
当時の滑州の位置が今の時代と違ったのかもしれないということです。
滑州は、もともと滑県と呼ばれていました。
滑州と呼ばれ始めたのは、隋代から明代になってからの話です。
その為に、この時代の滑州は、滎陽の北あたりにあった可能性があるということです。
そうであれば千里行で、関羽が通った関所のルートは納得できるものではありますね。
正史から見る関羽の千里行
蒼天航路(17巻5P)より画像引用
次に関羽の千里行について、
正史の記録からみていきたいと思います。
とりま正史には以下のように記録が残っています。
関羽が劉備の元に戻る為に、
曹操の元を去ったという記録はきちんとあります。
まぁ一つ言えることは、演義の話とは全くもって違います。
曹操からきちんと許可を貰った関羽は、
許昌から直接に張飛達がいる汝南へ向かったのですから・・・
曹操の面会謝絶の悪戯なんてものは、もちろんありません。
また演義で書かれていた関所突破はありえません。
ましてや汝南と全く違う場所である洛陽方面などはもっとありえない話です。
演義では劉備への忠誠心を誇張する為に、
「関羽の関所突破による千里行」という話が作られたと推測されます。
よってこの演義で壮大に描かれている関羽の千里行の話ですが、
実際にはなかったものだと考えるのが自然でしょう。