曹操、魏公になる

これまでの曹操は丞相(じょうしょう)という役職についていましたが、

213年に魏公になります。

 

丞相というのは、

後漢から授かった役職に過ぎませんでしたが、

 

魏公になったという事は、

後漢の土地を実質曹操が貰った事を意味します。

 

 

魏公になった事で、

曹操は名実ともに、自分自身の国を手に入れた事を意味します。

 

しかし同時に、

後漢帝国の滅亡が近づいてきたことを意味します。

荀彧の死去

 

この曹操の考えに大反対したのが、荀彧でした。

 

荀彧がいたからこそ、

曹操はここまでの飛躍ができたといっても過言ではありません。

それぐらい曹操に貢献した人物です。

 

荀彧の考えとしては、

あくまで後漢王朝の復活が前提にあり、

それを成し遂げてくれるのが曹操だと信じていました。

 

ですが荀彧と曹操の考えに明確なずれが発生し、

荀彧は自害に追いやれています。

劉備と孫権の同盟に亀裂が入る

 

劉備が成都を落とし、益州を攻略した事で、

荊州南部を孫権側に返還する約束を果たす時が到来しますが、

劉備は荊州南部を返そうとしません。

 

もともと周瑜の天下二分の計があり、

益州は孫権が攻略したいと思っていた地域だったので、

これで孫権が激怒してしまいます。

 

もともと益州攻略を劉備と共にしようと呼びかけた事もありました。

その時は、「益州の劉璋とは同族なので、攻める事はできない」と言っていたのに、

勝手に一人で攻略してしまった事も念に持っており、それが爆発した形でした。

 

劉備軍と孫権軍の激突は、

避けられないものになっていきました。

魯粛の仲介

丁度この時期、曹操が益州の入り口にあたる漢中攻略を開始しました。

漢中は張魯(ちょうろ)が治めている地域でしたが、

この後、曹操が張魯を倒し、漢中を制圧してしまいます。

 

劉備の懸念として、

孫権との争いが避けられなくなってきて、

勝っても負けても甚大な被害が出る可能性は懸念していました。

実際敵は孫権だけではないからです。

 

ですが荊州を返す気がなく、

劉備自身、引くに引けない状態だったのです。

そこで、劉備に好意的な魯粛が仲介に入ります。

 

荊州南部を東西に分け、

東側を孫権に返上し、西側を劉備が治めるというものでした。

 

さすがに曹操・孫権双方と戦争になる可能性があった為、

215年、劉備は魯粛の提案を受け入れます。

 

しかし今回生じた亀裂は、

後にとりかえしのつかない事態へと進展していくのです。