蜀滅亡への階段
姜維が北伐を幾度となく行ったことにより、
蜀の国力は大幅に低下してしまいます。
そんな中で、黄皓(宦官)が台頭してきたのでした。
蜀の政治を蒋琬・費禕が担っていた時には宦官の制御ができていたのですが、
蒋琬・費禕が亡くなったことにプラスして、
姜維が北伐を開始したことで状況が変わっていきます。
そして劉禅に仕えていた黄皓が次第に力を握っていき、
宦官の立場でありながら、政治へと介入してくるようになったわけですね。
またこの現状を憂いた忠義の者達は黄皓をどうにかせねばと思いながらも、
劉禅に取り入っていた黄皓をどうすることもできなかったのでした。
後漢王朝の末期に近い状態になったわけですね。
というか、ほとんど同じです。
後漢王朝も外戚と宦官によって一気に衰退していくわけですから・・・
そして諸葛亮の子であった諸葛瞻は成長するにつれ、
二世としての期待を受け、蜀の中枢を任される立場まで昇進してきますが、
黄皓の勢いには逆らえず、
逆に黄皓と協力する形で北伐を続ける姜維と対立していく事となります。
姜維と黄皓の対立も激しさを増し、
常に劉禅の傍にいる黄皓と漢中に長らく滞在していた姜維を比較しても、
劉禅の傍にいて常に会話できる黄皓側に優位に働いたのはいうまでもありません。
最終的に姜維は成都へ戻る事で殺害される可能性が生まれた事で、
その後の姜維は、ただ漢中に居座るしかなかったとも言われています。
魏が蜀へ侵攻開始する
姜維の北伐により国が疲弊し、
なおかつ蜀の内部が大きく乱れている事をチャンスと見た司馬昭は、
蜀を滅ぼすべく、鍾会・鄧艾に蜀討伐へと出向かせます。
鄧艾・鍾会が蜀討伐へ出向くと聞いた邵悌という人物は、
「鍾会は野心家なので十万の兵士を持たせるのは非常に危険ですよ」
司馬昭に忠告したことがありましたが、
それに対して司馬昭は、
「私と鍾会の考え方は非常に似ている。
鍾会ならば蜀を滅ぼしてくれるだろうし、
蜀を討伐した後に邵悌の言っているように反乱を起こしたとしても、
鍾会の力では蜀をまとめきれるわけがないから普通に失敗するだろう。
だから何も心配する必要はない!」といったやりとりが残っています。
そして鍾会・鄧艾は、蜀の玄関口である漢中へと侵攻していくのでした。
鍾会・鄧艾による漢中奪取
漢中へ侵攻してきた姜維は急いでその対応にあたります。
しかし姜維は鄧艾・鍾会に敗れてしまい、
漢中を守り抜くことが厳しい状況に追い込まれていったわけです。
姜維は蜀軍が危機に陥っていることを急いで成都へ知らせますが、
姜維と仲が悪い黄皓の言葉もあり、
姜維の元へと援軍が出される事はなかったのでした。
結果として漢中は鍾会・鄧艾によって完全に占領され、
敗れた姜維は剣閣まで撤退して守る事を決意!
姜維が剣閣の地で魏軍を防衛の地として選んだのには理由があり、
剣閣は天然の要害であったことがあげられます。
だからこそ例え魏軍が大軍で押し寄せたとしても、守り抜けるとの自信もあったのでした。
また剣閣を突破されれば、
蜀の首都であった成都への侵攻を許してしまい、
それは延長線上に蜀滅亡の可能性が大きく増すことを意味しており、
姜維は最後の蜀の生命線として剣閣を選んだわけですね。
剣閣防衛戦
姜維含む蜀の主力軍が守る剣閣へと鍾会・鄧艾が迫り、
両軍は剣閣の地で激しくぶつかります。
剣閣は天然の要害であっただけでなく、
姜維をはじめとして、
歴戦の猛者であった廖化・張翼ら精鋭部隊五万人が守っていた場所でした。
鍾会・鄧艾はなかなか剣閣を突破する事ができないばかりか、
多くの兵士が討ち取られていた事で、
一時撤退をすべきではないかと考えるようにまでなったそうです。
実際諸葛亮が長らく悩んでいた食糧輸送問題が、
今度は鍾会・鄧艾側にも起きたという方が正しいかもしれません。
戦いが長引くにつれ食糧問題の悩みが出てきたわけです。
陰平ルートで成都攻略を目指した鄧艾
「今の現状では剣閣を突破する事はできない!」とふんだ鄧艾が、
別動隊を率いて陰平の山谷を進軍する事を提案!
鍾会は「あんな進路を取ることは命取りだ!」と議論を交わしますが、
最終的に鄧艾が陰平方面からの侵攻が決定したのでした。
この奇襲は一歩間違うと鄧艾軍が壊滅する事に繋がったわけですが、
結果だけ見ると鄧艾の奇襲は大成功を収めます。
鄧艾が陰平方面から侵攻してきたことに劉禅は慌てます。
急いで諸葛瞻を総大将として鄧艾軍にあたらせるわけですが、
諸葛瞻は一向に動こうとしませんでした。
黄権の子であった黄崇なんかは、
「要所を全て抑えてしまえば鄧艾軍は滅びるしかない!」と諸葛瞻に言うものの、
諸葛瞻の判断能力が鈍く、要所を抑えずに様子見を続けた事で、
すんなりと鄧艾軍の侵攻を許してしまいます。
様子見を続ける諸葛瞻に対して、
黄崇は幾度となく要所を抑えるように泣きながら願い出たほどだったといいます。
しかし最後まで黄崇の意見が取り入れられることはなく、
諸葛瞻・諸葛尚親子・黄崇らは、綿竹関で鄧艾を迎え撃つことになったのでした。
綿竹関の攻防戦
綿竹関で鄧艾を迎え撃ったのは、総大将であった諸葛瞻!
諸葛瞻は諸葛亮の子にあたりますが、
他にも有名な人物の子孫が守っていた戦いでもあったのです。
- 諸葛瞻の子である諸葛尚(諸葛亮の孫)
- 黄権の子である黄崇
- 張苞の子である張遵(張飛の孫)
諸葛瞻は最初の一戦でこそ勝利するものの、
最終的に鄧艾軍の猛攻に耐え切れずに全員討死してしまったわけです。
諸葛瞻は判断能力に明るいわけではなく、
黄皓と協力したりと諸葛亮に比べて暗愚に見えてしまうところがありますが、
最後の最後は蜀へ忠誠を尽くして討死したというところは、
「終わりよければ全てよし!」ではありませんが、綺麗な終わり方だったんじゃないかと思うわけです。
死に際が綺麗な者はどうしても高い評価を受けやすいですしね。
ちょっとした余談ではありますが、
鄧艾が綿竹関を守る諸葛瞻に降伏の使者を送った時のことですが、
諸葛瞻はその使者を斬り捨てて、鄧艾と激突したような逸話も残っています。
ただなんといっても惜しいのが、
黄崇の策を諸葛瞻が聞き入れずにスルーしてしまって点は言葉になりません。
それを一番強く感じたのは黄崇自身でしょうね。
「歴史にもしも・・・」なんてことはありませんが、
それでももしも諸葛瞻が黄崇の作戦を迅速に実行に移していれば、
身動きが取れない鄧艾軍は全滅していた可能性は大きくあったでしょうね。
なんせ前にも後ろにも引けなくなった鄧艾に対して、
最後に残された道は全滅しかないのですから・・・
いざとなれば援軍として更に蜀の各地から襲わせることもできるのですから、
当たり前と言えば当たり前のことなんですけどね。
蜀の滅亡(劉禅降伏)
成都へとなだれ込んだ鄧艾に対して、
譙周らの進言もあって、劉禅は戦うことなく降伏を決意します。
劉禅は自らの手を後ろに縛って鄧艾の前に出向き、棺を持って降伏を願い出たのでした。
それを見た鄧艾は棺を焼き払って劉禅の降伏を受け入れます。
鄧艾は蜀の臣下達を劉禅時代と同様に待遇し、
民衆に対して略奪行為などを全く行わなかったことにより、
多くの者達が鄧艾の行いに感謝したといいます。
ただ鄧艾が劉禅を待遇したのにも、
蜀臣下の者達を変わらず採りたて、民衆を労わったのにも理由があり、
鄧艾は蜀を滅ぼした勢いのままに呉への侵攻を考えていたのでした。
そして呉へと攻め込んだ際に、
蜀での対応を聞いた孫休が降伏してくる可能性への布石になると考えていたようです。
とにもかくにも劉禅が降伏したことにより、
魏・呉・蜀による三国時代に幕を下ろすことになります。