出師の表

横山光輝三国志より画像引用

 

諸葛亮は南蛮平定を成し遂げた事で、

劉備の悲願であった漢王朝復興を実現すべく魏討伐を決意します。

 

諸葛亮は曹叡が跡を継いだばかりでチャンスと見たわけです。

 

その時に諸葛亮が劉禅に対して上奏したのが、「出師の表」です。

 

 

この出師の表には。

「劉備から受けた大恩と国家安定の方法が記載されており、

諸葛亮は魏を討って劉備から受けた恩を返したい」といったような記載がされていました。

 

諸葛亮の「出師の表」を聞いた劉禅はじめ臣下一同は、

感動のあまりに感動しない者がいないといったほどでした。

 

 

またこれには諸葛亮が

「皆で魏討伐を成し遂げるぞ!」と一致団結させる意図もあったのだと思いますね。

 

それまでの蜀というのは、

各地の出身組(特に荊州組)と益州組がおり、

 

なんだかんだで派閥みたいなのがあったのが実情だったからです。

 

 

そこに共通の目標を作ることで、

「派閥なんか作ってる場合じゃないぞ!」と言いたかったのだと思います。

 

ただでさえ小国の蜀が内部的にごたごたしてたのでは、

魏を討伐するなど完全に不可能だからです。

 

 

これより劉禅を信頼できる者達に託し、

魏を倒すまでは戻ってこないという意志で北伐へと出向くのでした。

 

そしてこれが諸葛亮と劉禅の最後の別れになろうとは、

この時の劉禅と諸葛亮は知る由もなかったわけです。

「出師の表」&「後出師の表」

北伐を開始した諸葛亮

第一次北伐

諸葛亮はこの第一次北伐にかける思いが大きく、

事前に緻密な計画を練っていました。

 

長安を守るのは夏侯楙かこうぼうであり、

夏侯惇の息子であったものの父親と違って才能に乏しい人物でした。

 

まずは長安付近の情報をきちんと偵察していたわけです。

 

 

また蜀から裏切って魏に投降していた孟達でしたが、

曹叡の代に代わって大事にされなくなっていったのを知り、

 

諸葛亮は北伐成功の為に孟達を最大限に利用します。

そして諸葛亮が孟達と内通させることにも見事に成功!!

 

しかしこれは事前に見破られ、司馬懿によって失敗に終わっています。

 

 

他にも蜀には馬超・馬岱といった涼州出身者がおり、

特に馬超は「錦馬超」と言われるほど涼州・雍州での知名度は絶大でした。

 

諸葛亮はその影響力を大きく活かします。

良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超

 

ただ馬超は諸葛亮が北伐を行った際には既に亡くなってはいますが、

馬岱を筆頭に涼州・雍州とのパイプは健在でした。

 

その結果、安定・天水・南安の三郡が諸葛亮に寝返ってしまいます。

 

 

そして諸葛亮らは游楚ゆうそが守る隴西郡へと進軍しますが、

游楚が抵抗する様子を見ると、ここをあっさりと引き上げていったのでした。

 

この時に諸葛亮が隴西郡を落とさなかったことが、

取り返しのつかない事になろうとは諸葛亮は想像すらしていなかったと思いますね。

 

諸葛亮としては抵抗してくる隴西郡を無理して落とすことは、

被害が増大する恐れがあるとして無理をしなかったのだと思います。

諸葛亮の第一次北伐が水泡に帰した最大の原因を作った隴西太守、游楚(ゆうそ)

 

そして蜀は勢いに乗って長安方面へと進軍を開始しますが、

ここで諸葛亮にとって思いもよらない事件ともいうことが起こってしまったのでした。

 

 

要所であった街亭を可愛がっていた馬謖に任せます。

 

多くの者達は「経験豊富な魏延や王平に守らせた方がよい!」と言ったにも関わらず、

諸葛亮は聞く耳を持たず、馬謖に街亭の守りを任せたわけです。

 

 

しかし馬謖は街亭の通り道を抑えず、山の頂上に陣をとってしまいます。

 

これを見た張郃はチャンスとばかりに山を包囲し、

馬謖は散々に打ち破られてしまったのでした。

街亭の戦いで、司馬懿が馬謖を破ったという話は本当?

 

 

街亭を魏に抑えられたことで諸葛亮は安定・天水・南安郡を放棄する形で、

漢中へと撤退していくことになったのでした。

 

その後諸葛亮に見捨てられた形になった安定・天水・南安郡は元の鞘に・・・

 

 

馬謖の失敗した罪は重く、馬謖は処刑されたことで第一次北伐は終了します。

ちなみに「泣いて馬謖を斬る」という言葉はこの時に生まれた言葉ですね。

泣いて馬謖を切る

第二次北伐

第一次北伐が馬謖の失態によって敗北に終わったものの、

その程度で魏討伐をあきらめる事はありませんでした。

 

諸葛亮は再度軍備を整え直し、その年の冬に再度魏への侵攻を開始します。

これが第二次北伐の開始になります。

 

しかし一回目と違って今度は魏も蜀に対しての対策を十分にしており、

陳倉ちんそうの城を堅固にし、郝昭かくしょうを守将として守らせていました。

 

 

またこの時、第二次北伐をスムーズに進める為に、

諸葛亮は次のような兵器を導入するような気合の入れようでした。

  • 雲梯(うんてい)・・・城を登る為のはしご車
  • 井闌(せいらん)・・・高い所から弓を撃つ為の車
  • 衝車(しょうしゃ)・・・城門を壊す為の車

 

 

兵器を導入して魏討伐に気合を入れていた諸葛亮ですが、

陳倉城をなかなか攻略する事ができません。

 

 

雲梯・井闌・衝車は全て木からできていたので、

郝昭は「火」「石」を使って梯・井闌の兵器を破壊していったのでした。

 

また地中を掘って城内に攻撃をしかけようとしている作戦に切り替えるも、

それも郝昭は読み切って失敗に終わっています。

 

 

兵力的には圧倒的に蜀が勝っていたのですが、

陳倉城を包囲するも攻略できずに食糧が尽きてしまいます。

 

これにより諸葛亮は、無理せずにあっさりと漢中へと退却しています。

第三次北伐

最初に言っておくと、本気で魏を攻める倒す為のものではない戦いでした。

 

それはなかなかうまくいかない北伐のなかで、

なんらかの成果をあげることで国内の士気を高めるという意図がありました。

 

だからこそこの三回目の北伐では、

陰平いんぺい武都ぶとという漢中の西側の攻略に成功しています。

 

 

もともとこの地域は政治的要素が非常に薄い地域で、

住民のほとんどが異民族というぐらいでした。

 

しかし小さなことでも成果を残すことは大事なことでもあったわけです。

 

 

陰平いんぺい武都ぶとが蜀に占領されたことを知った曹真・司馬懿が蜀への侵攻を開始!!

 

ただ不運にも長雨が続いた為に魏の兵士の中で病気が蔓延し、

曹真・司馬懿は何の成果もあげられずに退却しています。

 

ちなみにこの時に曹真も病気になった一人で、帰還後にあっさりと亡くなっています。

第四次北伐

諸葛亮は四度目の魏討伐へと乗り出します。

この北伐で諸葛亮は祁山へと進軍するのですが、

 

ここで諸葛亮を迎撃する為に立ちふさがったのが司馬懿でした。

 

 

諸葛亮と司馬懿の実質初めての戦いでもあるわけですけど、

三国志演義の影響から第一次北伐からのライバルだと思ってる人は多いんですよね。

 

そしてこの祁山の戦いに勝利したのは諸葛亮でした。

 

 

しかしここで思いもよらない事が起こってしまいます。

李厳が食糧輸送がうまくできなかった為に嘘をついて諸葛亮を撤退させてしまった事でした。

 

魏は大きな被害を受けていたからこそ、

蜀にとっては大きなチャンスでもあったのですが、

 

そのチャンスを自ら捨てて撤退しなければいけなくなったわけです。

 

 

撤退後、李厳が責任転嫁の為に嘘をついたことが発覚し、

 

李厳を庶民に落としはしたものの、

諸葛亮にとってはチャンスを捨てた事はあまりにも大きい事でした。

評価が高かった割に、活躍らしい活躍がほとんど見られない李厳

 

 

しかしタダでは転ばない諸葛亮は、

追撃してくる張郃を見事に討ち取る大功をあげています。

 

張郃は魏の五大将軍と呼ばれた一人であり、

蜀の五虎将軍(関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超)みたいな立ち位置にいた人物でした。

第五次北伐(五丈原の戦い)

諸葛亮は何度も食糧問題で悩まされてきた経験から、

今度は長期戦で確実に魏への侵攻をやっていこうと計画して現地で屯田を開始します。

 

 

五丈原ごじょうげんで諸葛亮と司馬懿は対峙するわけですけど、

一進一退の攻防が繰り広げられます。

 

今回はこれまでと違って食糧確保の為の屯田を行っていた事で、

食糧問題はある程度解決できていました。

 

しかし諸葛亮自身もこの北伐で、

自分自身の寿命が尽きてしまうとは思っていなかったでしょう。

 

 

そしてその時が訪れます。

五度における北伐に望んだ諸葛亮でしたが、陣中に没してしまったわけです。

 

 

ちなみに「死せる孔明 生きる仲達を走らす」という言葉は、

ここで生まれています。

 

諸葛亮の死を確信して追撃してきた司馬懿は、

諸葛亮の残した作戦によって反撃し、

 

あたかもまだ諸葛亮が指揮をとっているかのように蜀が動いたのです。

 

 

それを見た司馬懿は「まだ孔明は生きていたか!」と勘違いし、

急ぎ撤退していったというものですね。

 

後で諸葛亮の死を聞いた司馬懿は、大層悔しがったといいます。

 

 

三国志演義では、諸葛亮の木像が事前に準備されており、

追撃してきた司馬懿がその木像を見て慌てて撤退したような描写がされています。

横山光輝三国志(59巻103P)より画像引用

諸葛亮の北伐まとめ

諸葛亮は第一次〜第五次北伐と魏を攻めましたが、

大きな結果を残すこともありませんでした。

 

しかし蜀の国力を大きく低下させるような戦いをすることもありませんでした。

 

 

だからこそ五回ほど魏との戦いをやったにもかかわらず、

国の経営を傾けてなかった点は大変評価できるところかと思いますね。

 

もしも夷陵の戦いのような敗北を喫していれば、

間違いなくその時点で滅んでいた可能性は十分にあったでしょうし・・・

 

 

大敗せずとも戦うだけでも人員を確保し、軍馬・武器・食糧が必要不可欠になり、

国力低下につながっていく可能性があるのにも関わらず、

 

そうさせなかった点だけ見ても、

諸葛亮を評価に値するんじゃないかと思うわけです。

 

 

陳寿は諸葛亮の事を大変高く評価しつつも

 

「臨機応変に対応できなかったことが北伐の成功につながらなかった」

と諸葛亮の北伐が成功しなかった理由を書き綴っています。

 

しかし諸葛亮はまずは国を滅ぼさない事・傾けない事が前提としてあり、

その中で戦う事でチャンスを待ち続けたのだと思っています。

 

その結果、北伐が成功される事がなかったというだけで・・・

 

 

また常に魏に意識を向けさせている事で、

国内の士気を高めるカンフル剤みたいな役割も果たしていたような気もしますね。