郭大賢の乱
黄巾の乱が鎮圧されてからも、黄巾賊残党が各地で暴れ、
その他の反乱も相次いでいました。
その中でも、188年に反乱を起こした郭太(かくたい)を首領とする白波賊は、
10万人以上の兵力で、黄巾の乱で弱り切っていた後漢に討伐する力はなく、
防ぐだけで精一杯の状態でした。
実際このあたりの資料は非常に乏しいのが現状ですが、
188年に并州で起こっている郭大賢の乱が、
同年同月同場所の反乱なので、これにあたるかなと思われます。
なので郭太=郭大賢だという前提で記載しています。
ちなみに白波賊も黄巾残党であり、
黄巾の乱を起こした張角は「大賢良師」とも呼ばれていたので、
郭太が張角を真似して、「郭大賢」とも呼ばせていた可能性があります。
張純の乱の鎮圧
187年に張挙を誘って起こった張純の乱は、
188年にも継続して続いていました。
公孫瓚が張純・張挙を鎮圧し、
更に劉虞が幽州の牧として赴任してきて、この反乱は決着がつきます。
王国・韓遂の乱
184年にも反乱を起こした辺章・韓遂でしたが、
188年、王国という人物を担ぎ上げて再度反乱を起こします。
そして馬超の父親である馬騰は、
「涼州の司馬」という役職についていましたが、
先の反乱で、既に辺章・韓遂側に軍を率いて寝返っていました。
またこの反乱に、
匈奴の於夫羅(おふら)単于も参加し、
郭太を首領とする白波賊も加勢したため、大規模な反乱に進展していきます。
皇甫嵩・董卓を将軍として鎮圧に向かわせる
王国・韓遂・辺章の反乱を鎮圧するべく、
皇甫嵩と董卓に討伐命令が出されます。
皇甫嵩は、黄巾の乱討伐で実績を出した将軍でしたが、
逆に董卓は、黄巾の乱では失態をしてしまった将軍でした。
凸凹コンビで討伐にあたらせたわけです。
王国・韓遂の乱の鎮圧
陳倉城を包囲していた反乱軍でしたが、
皇甫嵩は「長期戦に持っていくべきだ」と主張し、
董卓は「城は堅固で、包囲している反乱軍を攻めるべきだ」と主張します。
皇甫嵩は董卓の考えを退け、長期戦で挑み、
反乱軍は2か月経っても陳倉城を落とせず、撤退を始めます。
撤退を始めた反乱軍を見て、
皇甫嵩は「これを待っていた! すぐに追撃だ!!」と主張し、
董卓は「撤退する敵軍を無駄に追撃するのは危険だからやめるべきだ!」と主張します。
ここでも意見がすれ違うわけです。
ですが皇甫嵩は再度董卓の考えをしりぞけ、追撃を開始します。
結果的に皇甫嵩・董卓の後漢軍は大勝利を収めます。
西涼まで退却した韓遂・馬騰は、
惨敗の責任を王国に取らせて追放し、王国はその混乱の中死亡してしまいます。
これにて韓遂達が起こした反乱は、一通りの決着がつくことになります。
また2度意見を退けられ、
それがまたうまくいってしまった事で、
董卓はおもしろくなく、
皇甫嵩と董卓の関係はこれより次第に悪化していきます。
宦官と外戚の対立
189年4月に霊帝が崩御すると、
跡継ぎ問題で宦官と外戚の対立が起こりました。
劉弁を推したのは何進達の外戚で、
劉協を推したのが十常侍ら宦官でした。
※十常侍・・・宦官の中でも力を持っていた12人の宦官(演義では10人の宦官)
そして大将軍である何進は、十常侍の一人である蹇碩(けんせき)を殺害し、
軍権を一人で掌握できるまでになってしまいます。
その結果、劉弁が「少帝」として即位します。
これに恐れをなした宦官達は、
何進の妹で、劉弁の母親である何太后に取り入ろうとします。
しかし何太后の言葉を持ってしても、何進は聞かず、何進の臣下であった袁紹らと共に、
十常侍ら宦官を一掃しようと画策します。
そして各地に檄を飛ばし、袁術・丁原・王匡・董卓などを都に来させました。
十常時の乱
横山光輝三国志より画像引用
189年4月、これに恐れをなした十常侍は、
うやむやに何進をおびき寄せ、殺害してしまいます。
そして何進が殺されたことを知った袁紹は、
十常侍ら宦官を虐殺してしまいます。
その数2000人を超えるほどだったと言います。
もうどうにもならないと悟った張譲・段珪は、
劉弁と劉協を連れて、都である洛陽を脱出します。
しかし、盧植達の追撃部隊に追い付かれ、
最後は黄河に入水自殺をします。
董卓の洛陽入城と暴政
張譲・段珪らに連れ出された劉弁と劉協を、
最終的に救い出したのが董卓です。
まさに洛陽の混乱につけこんで、漁夫の利を得た形です。
董卓は何進の兵力を吸収し、
丁原に仕えていた呂布を裏切らせて、丁原の兵力も吸収していきます。
これによって兵力を確保した董卓は、
次に少帝を勝手に廃位し、劉協を即位させます。
これにより、完全な独裁政治が行われていくのです。
これに愛想を尽かした袁紹・袁術らは、
董卓を見限り、洛陽から自分の領地へ引き上げていくのでした。