昌豨討伐と徐州刺史へ出世

臧覇の呼びかけで曹操に帰順した人物に昌豨がいましたが、

 

袁紹と白馬・官渡の戦いが勃発する前に、

劉備が徐州で曹操に反旗を翻しました。

 

 

この際にかつての仲間であった昌豨が劉備に呼応する形で、

曹操に背いて東海郡で反乱を起こします。

 

 

 

曹操は劉岱・王忠に命じて劉備討伐を命じますが、普通に敗北しており、

200年に曹操自ら出陣する事で劉備の撃破に成功したのでした。

 

 

そして昌豨は再び曹操に帰順したようですが、

 

この前にも昌豨は反乱を起こした経緯があり、

最初の臧覇の頃と合わせると、今回が三度目の曹操への抵抗でもありました。

 

 

しかしその後も二回に分かって反乱を起こしたわけですが、

 

その二回目(合計五回目)にあたる206年に、

昌豨討伐を任されたのが臧覇と于禁でした。

 

 

昌豨は善戦するものの、

夏侯淵の援軍もあり五度目の降伏をすることとなったわけです。

 

臧覇とはかつての仲間であり、于禁とも旧縁がある間柄でした。

 

昌豨は「今度も許されるだろう」と安易な気持ちでいたわけですが、

于禁の元に降伏を願い出た昌豨ですが、普通に処刑されてしまいます。

 

「包囲された後に降伏を申し込んでも、

許すことはできない決まりがある」と・・・

 

 

 

後に昌豨が処刑されたことを聞いた曹操は、

 

度重なる反乱を起こしたにも関わらず、

それでも「昌豨の才能を惜しんだ」と伝わっています。

 

その際には于禁と協力して昌豨の撃破に成功しています。

 

 

昌豨討伐での臧覇の活躍が残されている資料を見る中では、

ほとんどない気もするのですが、ここでも活躍したとは伝わっています。

 

それ以降も活躍を続けた臧覇は、

徐州刺史に任命されることとなったのでした。

孫権との激突(其一)

その後の臧覇は、孫権との戦いに明け暮れていく事となります。

 

209年の孫権と曹操の戦いでは、

先鋒隊を任されたのが臧覇であり、居巣を攻撃して勝利を収めています。

 

 

 

また張遼が陳蘭ちんらん梅成ばいせいが反乱を起こした際には、

張遼・于禁・張郃が討伐にあたることになります。

 

その際に別部隊を率いて「皖城」を攻撃したのが臧覇でした。

 

 

これの意味する所は、陳蘭梅成と裏で繋がっていた孫権が、

援軍を送る事を防ごうとした狙いがありました。

 

 

そういう経緯から臧覇と韓当は、

逢龍ほうりゅう夾石きょうせきで激突を見せる事となりますが、

 

臧覇は韓当との戦いに勝利を収め、じょに帰還していますね。

 

 

そして孫権からの援軍が届かなかった逢龍夾石は、張遼によって打ち破られ、

二人が斬り捨てられた事で反乱は沈静化していくのでした。

孫権との激突(其二)

韓当との戦いからしばらく時間が過ぎた217年の話になりますが、

 

この年は曹操と孫権の間で、

濡須口の戦い(第三次)が勃発した年です。

 

臧覇は張遼と共に先鋒を任されることになりますが、

呂蒙に敗れた戦いでもありますね。

 

 

どういう戦況だったのかといいますと、

 

大雨が降り続いたことによって水位が上昇していしまい、

戦える状況ではなくなっていきます。

 

そればかりか呉船が徐々に前進してきていた状況でもありました。

またその状況に多くの兵士が不安にかられたといいます。

 

 

そして張遼は撤退する事を臧覇に進言するも、

 

「曹操殿が我らを見捨てるわけがない。

今は曹操殿を信じてこの場所で踏んばる事こそ最善の策である」

と臧覇は返し、張遼は臧覇の言葉に従ったのでした。

 

 

 

翌日に曹操から撤退命令を出された事で、

この戦いは終着を迎えたわけです。

 

張遼は臧覇の話を曹操に告げると、曹操の臧覇への信頼は更に高まり、

これらの功績から揚威将軍に任じられています。

 

またそればかりか仮節(軍事裁量権)まで与えられていますね。

 

そして引き続き呉の対策として、

臧覇は夏侯惇と共に居巣に留まっているのは余談です。

孫権との激突(其三)

曹操が亡くなったことで曹丕が跡を継いだのですが、

この時に臧覇は鎮東将軍に昇進し、武安郷侯の爵位封じられます。

 

またそれだけではなく、都督青州諸軍事も任されたのでした。

 

 

参考までにですがこの当時に、曹一族・夏侯一族といった身内以外で、

「都督州諸軍事」に任じられた人物は臧覇一人だけになります。

 

それだけ高い評価を受けていたということですね。

 

 

劉備が夷陵の戦いで陸遜に大敗を喫すると、

曹丕は「呉軍はそのまま益州へと攻め込む」と予想し、

 

三方面から呉へと侵攻を開始したのでした。

  • 濡須口の戦い(曹仁など)
  • 洞口の戦い(曹休・張遼・臧覇など)
  • 江陵の戦い(曹真・夏侯尚・張郃・徐晃など)

 

 

この三方面の戦いで臧覇が任されたのは、

洞口方面での戦いでした。

 

臧覇は曹休・張遼・賈逵と協力しつつ、呂範に勝利を収めます。

 

 

他にも臧覇は徐陵襲撃で勝利を収めたのですが、

更なる追撃をしていた際に徐盛・全琮の反撃にあった事で大敗してしまいます。

 

 

これにきっかけに呉軍が優勢となり、

曹休・張遼なども打ち破られてしまう事になります。

 

また他の方面の戦いも呉軍の勝利で終わったことで、

三方面の戦いは完全な失敗に終わってしまう事になるのでした。

その後の臧覇

三方面の戦いを最後に、臧覇は前線から退くこととなります。

 

臧覇は曹丕から中央に呼び戻され、

軍事顧問的な立ち位置になっています。

 

そして何かあるごとに「曹丕は臧覇に相談した」といいます。

 

 

ただ臧覇が前線から退いたのには理由があり、

 

曹操が亡くなった220年に、

「青州兵が勝手に去っていった」という話が残っています。

 

そして臧覇の部隊からも多くの兵が去っていったというような記載があります。

 

 

またそれ以外にも、

「一万の兵士を貸して頂ければ、

長江の先へと進軍してみせましょう!」

と意気込んだこともあったといいます。

 

 

 

個人的にはこの事が曹丕に何故に疑惑の念を抱かせたのかは不明ですが、

とにかく曹丕は「この臧覇の発言に違和感を抱いた」といいます。

 

 

そして曹操死亡時の事も相まって、

曹丕は臧覇から軍権を完全に奪ってしまったわけです。

 

「疑わしき者から軍権を奪った」という感じでしょうね。

曹丕らしい逸話でもありますが・・・

 

 

そんな臧覇ですが、曹丕が亡くなり曹叡の代になると、

食邑が五百戸加増され、これまでのものと合わせて三千五百戸となりますが、

 

間もなく亡くなってしまったのでした。

 

 

臧覇は曹操から絶大な信頼を受け、

 

曹操・曹丕・曹叡と三代に仕えた、

「三国志演義」からでは想像できない程に活躍を続けた人物だったわけですね。