「三国志演義」での臧覇(ぞうは)

臧覇というと「三国志演義」の影響を受け、

次のようなイメージを持っている人も多いと思います。

 

「三国志演義」に登場する臧覇は、

呂布の臣下である「八健将」の一人として登場します。

 

 

ちなみに「八健将」とは、呂布配下であった次の八人であり、

張遼、臧覇、郝萌、曹性、成廉、魏続、宋憲、侯成の八人を指していますね。

 

序列は左の張遼を一番に、臧覇が二番目、

そしてそのまま左から順に侯成が八番目となっています。

 

 

「高順は入らないのか!?」

と思われる方もいらっしゃると思いますが、普通に入っていません。

 

 

ちなみに「八健将」は、

「三国志演義の第十一回」に登場しており、

 

そこで誕生した言葉になりますね。

 

 

「呂布が軍勢の先頭に呂布が堂々と立っており、

その両脇に八員の健将が控えていた」というものでした。

 

「この時に張遼と臧覇が、

それぞれに他の三人を率いていた」という感じです。

 

 

そんな臧覇ですが、曹操との戦いに敗れて捕縛されてしまうのですが、

これをきっかけに曹操に仕えることとなります。

 

むしろこれ以降は赤壁の戦いの直前に、

徐庶とともに赤壁の地を離れており、それ以降は登場していません。

 

 

 

ですので三国時代の序盤の人物だと思われがちですが、

 

臧覇は曹叡の時代まで生きた人物であり、

それと同時に長らく活躍した人物でもあり、そもそも呂布の配下ではありません。

 

むしろ「呂布と同等の立場」でもあり、

「三国志演義」では分からない程に芯がしっかりとした豪傑だったのです。

父親の奪還

臧覇の父親は臧戒ぞうかいといい、兗州の県の獄掾でした。

 

 

現在でいう所の「刑務官」みたいな立ち位置が獄掾ですが、

他にも獄史・獄卒などがありました。

 

獄掾・獄史は基本的に、ある程度の力を持っていた豪族出身者が任じられる場合が多かったことから、

その点だけを考えても臧戒が、地方豪族の出身だった可能性が高いでしょうね。

 

 

 

話を戻しますが、郡太守が意味もなく人を殺そうとしたことがあり、

これに臧戒は大きく反対したといいます。

 

臧戒に対して怒りを抱いた太守は、無実の罪で臧戒を捕縛すると、

百人程度の役人に厳重に守らせながら護送したのでした。

 

 

父親である臧戒が捕縛され、護送されている事を知った臧覇は

すぐさま護送車を襲う計画を立てます。

 

「多勢に無勢」と普通はなりそうですが、

臧覇は食客数十人を引き連れると、役人を蹴散らして父親を救ったわけです。

 

この時の臧覇はまだ18歳の若者だったといいます。

黄巾賊討伐に参加(陶謙時代)&独立

それからしばらくしてのことですが、

 

臧覇は陶謙に仕え、

黄巾賊討伐の一員として参加しています。

 

この時の臧覇の活躍から、「騎都尉」に任じることになります。

 

 

しかし陶謙の性格が乱暴な事を知ると、

臧覇は自ら徐州で兵を集めると、そのまま陶謙から独立したのでした。

 

ちなみにですがこの際に、

孫観そんかん呉敦ごとん尹礼いんれい昌豨しょうきらが臧覇に従っていますね。

臧覇VS呂布

197年に臧覇は、琅邪郡を治めていた蕭建しょうけんを打ち破った事で、

莒城を獲得し、領土拡大に成功しています。

 

 

しかし蕭建は呂布と協力関係にあった事から、

臧覇に蕭建が追いやられた事を知った呂布は激怒してしまいます。

 

 

これにより呂布は臧覇討伐に乗り出すわけですが、

この際に高順が注意を促したりもしていますね。

 

「何もせずに相手を従わせることが大事にであり、

戦いをしかけてもし負けるような事になれば名前に傷がつきます」と助言するも、

 

その言葉に呂布が耳を傾けることはありませんでした。

 

 

そして呂布はそのまま臧覇に戦いをしかけたのですが、

臧覇を倒すことはできないばかりか敗れてしまいます。

 

臧覇の強さを知った呂布は、「後に和解した」といいます。

 

 

ちなみにこの臧覇と呂布の話は、正史に書かれてあるものではなく、

劉表・劉琮・曹操と仕えた王粲の「漢末英雄記」に書かれてある話になりますね。

曹操VS呂布

 

198年に曹操と呂布の間で戦いが勃発すると、臧覇が援軍に駆け付けます。

しかし臧覇の援軍も空しく、呂布は曹操に敗れる事に・・・

 

 

臧覇はなんとか逃亡に成功しますが、後日曹操に捕らえられてしまいます。

ちなみに曹操は懸賞金を出してまで臧覇を探させたといいます。

 

 

そして曹操は臧覇と対面してみるも、

臧覇を大変に気に入った曹操は臧覇の説得を試み、

 

臧覇は曹操に仕えることになります。

 

 

また臧覇が曹操に降った事で臧覇が、

孫観・呉敦・尹礼・昌豨らを呼び寄せた事で、

 

これらの者達も曹操に帰順しています。

 

 

 

曹操は臧覇を大変に評価し「琅邪の相」に任命しています。

 

そしてこれの意味するところは、

青州・徐宗の二州の統治を任せたということですね。

青州・徐州を任された臧覇

 

青州・徐州の統治を任された臧覇でしたが、

この時の青州は曹操領土という事ではなくて、ほとんどが袁紹の領土となっていました。

 

 

つまりこれの意味する所の一つとして、

「青州の袁紹領土を奪え!」ということであり、

 

臧覇は何度も青州へと侵攻し、

斉郡・北海郡・東萊郡の制圧に成功しています。

 

 

臧覇が何度も青州へ侵攻してくれたおかげで、

青州の袁紹軍は援軍を出すことができませんでしたし、

 

後に曹操が袁紹と戦う事になるわけですが、

その際に「臧覇は何度も青州へと侵攻を続けた」といいます。

 

そのお陰で青州の袁紹軍は臧覇に釘付けとなり、援軍を出すことができなかったのでした。

 

 

そして後に曹操が、

「西は鍾繇がおり、東は臧覇がおる。

そのお陰で私は袁紹だけを見て戦いに挑めた!」

と鍾繇と臧覇に感謝した逸話が残っていますね。

 

そしてその功績の大きさから臧覇は都亭侯となり、威虜将軍に任命されています。