蜀呉激突へのカウントダウン(劉備の決断)

建安25年(220年)、長年にわたり後漢王朝を支配下に置いていた曹操がこの世を去りました。

 

曹操は生涯、皇帝の位に就くことはありませんでしたが、

その死後、嫡男の曹丕が魏王の地位を継承し、同年には献帝から禅譲を受ける形で皇帝に即位します。

これにより約四百年続いた後漢王朝は滅亡し、新たに魏が建国されました。

 

しかし、劉備にとって最大の悲劇は、それより少し前に起きていました。

建安24年(219年)、荊州を守備していた関羽が樊城攻略を進める一方、

その背後では孫権が呂蒙を総司令として荊州への奇襲作戦を開始します。

 

呂蒙は病を装って陸遜へ軍権を譲ったように見せかけ、関羽の警戒心を緩める巧妙な策を用いました。

そして白衣に変装した兵を船に乗せ、長江を一気に遡って荊州へ侵攻します。

 

この作戦によって南郡をはじめとする荊州の要地は次々と制圧され、

関羽は補給線と退路を完全に断たれました。

 

樊城攻略を断念した関羽は麦城へ退却しますが、最後は孫権軍に捕らえられ、関平とともに処刑されます。

 

正史では、この荊州攻略を主導したのは呂蒙であり、陸遜はその後方支援や関羽への牽制を担当していました。

後世には「呂蒙・陸遜による荊州攻略」と並び称されますが、実際の作戦の中心人物は呂蒙であったことが記されています。

 

関羽の戦死は、劉備にとって単に一人の将軍を失ったという出来事ではありませんでした。

幾多の苦難を共に乗り越えてきた人物を失ったことは、劉備の心に深い傷を残しました。

さらに荊州という蜀の東方防衛の要を失ったことで、国家戦略そのものも大きく揺らぐことになります。

 

そして建安25年(220年)、

曹丕が魏を建国すると、劉備は漢王朝の正統が失われることを深く憂えました。

 

翌221年、群臣の強い推戴を受けた劉備は成都で皇帝に即位します。

ただし、劉備自身は新たな国家を建てたという意識ではなく、あくまでも後漢皇室の血統を継ぐ者として漢王朝を継承する立場を示しました。

そのため国号も「漢」と定めています。

 

現在一般に用いられる「蜀」や「蜀漢」という呼称は、魏・呉との区別のため後世に付けられた名称です。

 

皇帝となった劉備でしたが、その胸中にあったのは栄光ではなく、深い悲しみでした。

漢王朝は滅亡し、義兄弟である関羽も失っています。

 

皇帝即位は漢王朝の正統を守るための政治的決断であり、決して喜びに満ちたものではありませんでした。

 

その頃、蜀の朝廷では呉への出兵について議論が重ねられていました。多くの重臣は慎重論を唱えます。

とりわけ趙雲は、「国賊は孫権ではなく魏である」と劉備を諫めました。

 

「蜀志」趙雲伝によれば、趙雲は

「私怨によって呉を攻めるべきではなく、まず中原を支配する魏を討つべきである」と進言しています。

漢王朝復興という大義を考えれば、蜀と呉が争うことは魏を利するだけだという冷静な判断でした。

 

しかし劉備の決意は揺らぎませんでした。

長年苦楽を共にした関羽を失い、さらに荊州を奪われたことは、

国家の問題である以前に、劉備自身の人生そのものを揺るがす出来事だったのです。

 

政治的な計算だけでは割り切れない強い思いが、呉討伐への決断を後押ししました。

こうして劉備は全国から兵を集め、自ら総大将として東征を開始します。

張飛の死

ところが、その出陣直前、さらなる悲劇が蜀を襲いました。

張飛が配下の范彊・張達に殺害されたのです。

 

張飛は出兵に備えて軍装を急がせていましたが、

その命令はあまりにも厳格で、期限内に準備できなければ処刑するとまで命じていました。

 

日頃から厳しい軍律で部下に接していたこともあり、

追い詰められた范彊と張達は夜陰に乗じて張飛を殺害し、その首級を持って呉へ亡命しました。

 

正史でも、張飛は部下には非常に厳格であった一方、君子には礼を尽くす人物だったと評されています。

しかし、その厳しさが最後には部下の反逆を招いたことは皮肉な結末と言えるでしょう。

 

張飛の死を知った劉備は更に深い悲しみに包まれます。

ただ張飛を失っても、劉備は軍を止めることはありませんでした。

 

むしろ二人の仇を討つという決意はさらに強まり、蜀軍は長江上流を東へ進軍して呉領へ侵攻します。

こうして、蜀と呉という二大勢力が国運を懸けて激突する夷陵の戦いの幕が、静かに上がろうとしていたのです。

夷陵の激突(蜀VS呉)

章武元年(221年)、

皇帝に即位した劉備は、自ら大軍を率いて呉討伐へと乗り出しました。

 

その目的は、関羽や張飛の仇討ちだけではありません。

荊州奪還によって蜀の東方防衛線を回復し、国家戦略を立て直すという軍事的目的も含まれていました。

しかし、この遠征は蜀の命運を左右する大戦へと発展していきます。

 

劉備軍は長江上流から東進し、巫峡を越えて呉領へ侵攻しました。

当初は蜀軍が優勢に戦いを進め、呉の諸将を次々と退けます。

 

呉軍の総司令官に任命された陸遜は、若年で実戦経験も少なかったため、呉の将兵からも不安視されました。

しかし孫権は陸遜の才能を高く評価し、全軍の指揮を一任します。

 

陸遜は劉備軍の勢いを正面から受け止めることを避け、持久戦を選択しました。

諸将が早期決戦を求めても応じず、防御を固めながら劉備軍の疲弊を待ち続けます。

 

一方の劉備軍は、長期間にわたる進軍によって戦線が大きく伸び、

多数の陣営を山間部に連ねる形となっていました。

「呉志」陸遜伝によれば、その陣営は数十里にも及んでいたとされ、統制や補給が難しい状態に陥っていたことがうかがえます。

 

夏を迎えると、陸遜はついに反撃へ転じます。

乾燥した森林地帯に築かれた蜀軍の陣営へ一斉に火を放ち、同時に全軍で総攻撃を開始しました。

この火攻めは蜀軍に壊滅的な打撃を与え、多くの陣営が炎上します。

馮習・張南・馬良・傅肜ら蜀の有力武将が相次いで戦死し、蜀軍は総崩れとなりました。

 

 

なお、『三国志演義』では八百里連営や諸葛亮の「八陣図」が描かれていますが、これらは創作色の強い逸話です。

 

正史では、劉備軍が広範囲に陣を展開したことと、

陸遜がその弱点を突いて火攻めを成功させたことが勝敗を分けた要因として記されています。

 

また、黄権の存在も見逃せません。

黄権は劉備に対し慎重な作戦を進言し、自らは魏軍への備えとして北方の防衛を担当していました。

しかし蜀軍本隊が大敗したことで帰国する道を失い、やむなく魏へ降ることになります。

 

黄権は降伏後も魏で厚く遇され、最終的に人材層の厚い魏の中で車騎将軍にまで昇進しました。

これは黄権の才能が敵国からも高く評価されたことを示しています。

 

一方、劉備は黄権の降伏を責めることはなく、

「黄権が私に背いたのではない。私が黄権を失わせたのだ」と語ったと伝えられています。

この言葉からは、敗戦の責任を部下ではなく自らに求める劉備の人柄もうかがえます。

 

夷陵の敗北によって蜀は多くの兵士と将軍を失い、国家の勢いは大きく衰えました。

劉備はわずかな兵とともに永安(白帝城)まで退却しますが、この敗戦が蜀に与えた影響は極めて深刻でした。

劉備崩御

章武3年(223年)、病に伏した劉備は、

自らの死期を悟ると諸葛亮や李厳らを白帝城へ呼び寄せ、後事を託します。

この時の遺言は中国史上でも特に有名です。

劉備は諸葛亮に対し、

「もし劉禅に才能があれば補佐してほしい。

もしその器でなければ、君が自ら国を治めてもよい」と語りました。

 

諸葛亮は涙を流し、

「必ず忠節を尽くし、命ある限り皇帝をお支えします」

と誓ったと伝えられています。

 

また、劉備は馬謖についても、

「口では兵法を論じるが、大事を任せてはならない」と戒めています。

の評価は後に第一次北伐の街亭の敗戦で現実のものとなり、諸葛亮は劉備の言葉の重みを改めて痛感することになりました。

 

劉備の死後、後を継いだのは劉禅でした。

実権は諸葛亮が握り、蜀は新たな体制で再出発することになります。

三方面の激突(魏VS呉)

その頃、夷陵で勝利を収めた呉にも安息の時間は訪れませんでした。

魏の皇帝・曹丕は、蜀と呉が激戦で疲弊した絶好の機会と判断し、黄初3年(222年)、大軍を三方向から呉へ侵攻させます。

 

戦場となったのは、洞口・濡須・江陵の三方面でした。

洞口では曹休・張遼・臧覇らが進軍しましたが、呂範・徐盛・全琮ら呉軍の粘り強い防戦に阻まれます。

暴風雨による混乱も重なり、魏軍は十分な戦果を挙げられず撤退しました。

 

濡須では曹仁が朱桓を攻撃します。

しかし朱桓は巧みな守備と伏兵によって魏軍を撃退し、大軍を相手に勝利を収めます。

 

さらに江陵では曹真・夏侯尚らが朱然の守る城を包囲しました。

朱然は少数兵力で長期間持ちこたえ、援軍との連携によって魏軍を苦しめます。

やがて魏軍内部で疫病が流行し、補給も困難となったため、最終的に包囲を解いて撤退しました。

 

こうして魏による三方面侵攻は、いずれも決定的な成果を挙げることなく終結します。

 

この勝利によって孫権の地位はさらに高まりました。

しかし孫権は直ちに皇帝を名乗ることはありませんでした。

当時の孫権は形式上、魏から呉王に封じられており、なお外交上の余地を残していたのです。

 

魏・蜀という二大勢力と同時に敵対する危険を避けるため、あえて皇帝即位を急がず、現実的な外交を優先しました。

 

その後、諸葛亮は蜀呉同盟の修復に努めます。夷

陵によって決裂した両国は再び国交を回復し、共同して魏に対抗する体制を築いていきました。

この同盟は以後の諸葛亮による北伐を支える重要な基盤となります。

 

そして後の黄龍元年(229年)、

魏との関係が完全に決裂したことを受け、孫権は武昌で皇帝に即位します。

ここに魏・漢(蜀漢)・呉の三皇帝が並び立ち、三国時代は名実ともに鼎立の時代を迎えました。

 

曹丕が興した魏、劉備が継承した(劉禅が引き継いだ)漢、そして孫権が建てた呉、

三つの国家が互いに覇を競う、新たな時代が本格的に幕を開けた