太史慈と孔融  -若き英雄が北海を救った快挙-

後漢末期、青州北海国を治めていたのが、

孔子の二十世余りの子孫として知られる名士・孔融でした。

孔融は学識と人格で広く知られ、多くの人々から尊敬を集めていました。

 

その頃、若き太史慈は郷里の東萊郡を離れて遼東へ赴いていましたが、

留守中に残された母親のことを孔融が手厚く世話していました。

 

孔融は太史慈本人と面識こそありませんでしたが、

その才能を高く評価しており、たびたび使者を送って太史慈の母の安否を尋ね、贈り物まで届けていたのです。

北海を襲った黄巾軍

興平年間(194年頃)、

黄巾軍の残党である管亥が大軍を率いて北海国へ侵攻しました。

孔融は都昌県に籠城したものの、数万ともいわれる黄巾軍に完全包囲されてしまいます。

 

ちょうどその頃、太史慈が遼東から帰郷しました。

帰宅した太史慈に母はこう語ります。

「孔北海(孔融)は、あなたと面識もないのに、

あなたが留守の間ずっと私を気遣い、親族以上に厚遇してくださいました。

今、その恩人が賊軍に包囲されています。あなたが助けに行かない理由はないでしょう。」

 

母の言葉を聞いた太史慈は恩義に報いることを決意します。

単身で包囲網の中へ

太史慈は準備を整えると、わずか数日で都昌へ向かいました。

黄巾軍の包囲は極めて厳重でしたが、夜陰に紛れて単身で城内へ潜入することに成功します。

 

孔融は突然現れた太史慈を大いに喜びました。

しかし太史慈が、「私が劉備のもとへ援軍を求めに参ります」と申し出ると、周囲の者たちは皆反対しました。

数万の敵に包囲された状況で脱出など不可能だと考えたからです。

 

すると太史慈は毅然として言いました。

「皆が不可能と言うからこそ、私まで不可能と言ってしまえば、

孔融殿の恩義にどう報いることができましょうか?」

 

この言葉に孔融は深く感動し、太史慈に援軍要請の使者を任せました。

太史慈の奇策

太史慈は翌朝、弓を携えて馬に乗り、二人の騎兵を従えて城門から出ました。

敵軍は驚き、総出で警戒します。

 

ところが太史慈は城外の堀付近に的を立てると、落ち着いて弓の稽古を始めました。

射終えると、そのまま城内へ戻ります。翌日も同じことを行いました。さらに翌日も続けます。

 

最初は緊張して見守っていた黄巾軍も、

「あれはただ弓の練習をしているだけだ」

と思うようになり、次第に警戒を緩めていきました。

 

ある日になると、太史慈が出てきても立ち上がる者すらいなくなりました。

太史慈はその瞬間を待っていたのです。

包囲突破

敵が完全に油断したのを確認すると、

太史慈は突然馬を走らせ、一気に包囲網を突破しました。

 

黄巾軍が異変に気づいた時には既に通過しており、

数人が射殺された事で、誰も太史慈を追う者はいなかったと「呉志」太史慈伝に残されています。

こうして太史慈は見事に敵中突破を成功させたのでした。

劉備への救援要請

太史慈は平原国を治めていた劉備のもとへ到着します。

そして劉備に向かって次のように訴えました。

「私は東萊の一介の人間にすぎません。

孔北海殿とは親族でも同郷でもありません。

 

ただ志を同じくする友として結ばれているだけです。

今、孔北海殿は管亥に包囲され、孤立無援の状態にあります。

あなたには仁義を重んじる名声があります。

 

だからこそ孔融殿は、命を懸けて私をここへ遣わしたのです。」

これを聞いた劉備は姿勢を正し、深く感銘を受けました。

 

そして有名な言葉を口にします。

「孔融殿は、世に劉備という者がいることを知っていてくださっていたのか。」

と語ると、劉備は直ちに精兵三千を太史慈に預けて同行させたのでした。

北海救援

援軍到着の報が伝わると、

管亥軍は援軍との戦いを避けて包囲を解き、四散して逃亡しました。

こうして孔融は危機を脱することができたのです。

 

救出された孔融は太史慈を見て大いに喜び、「卿は私の若き友である」と称えました。

 

これは年齢差を超えて深く信頼する友人という意味であり、

孔融が太史慈を非常に高く評価していたことを示しています。

 

帰宅した太史慈がこの出来事を母に報告すると、

「あなたが孔北海殿の恩に報いたことを、私は何より嬉しく思います。」

と母は喜んでこのように語ったといいます。

 

この逸話は、太史慈の「義を重んじる人格」と「豪胆さ」、

そして当代屈指の弓術を示す代表的なエピソードとしての記録となります。

 

また孔融への恩義を忘れず、命懸けで救援を求めた太史慈の行動は、

後世においても美談として語り継がれる事も多い逸話の一つとなっています。