張特と諸葛恪のやりとりから見える百日(100日)ルールの存在

 

諸葛恪が攻めてきた際に張特は合肥新城の守りに徹しますが、

次第に諸葛恪によって追い込まれていきました(第五次合肥の戦い)。

 

 

この時に張特は、「魏には百日ルールという法律がある。

百日間守り抜けば、敵に降伏したとしても残された妻子が罪に問われることがない。

 

もうこちらとしてはこれ以上戦う意思はない。

籠城して三か月が既に経過しているから少しだけ待ってくれ」

 

と諸葛恪に伝え、これを信じた諸葛恪が攻撃を中止するんですが、

これは張特の真っ赤な嘘で、その間に傷んだ城壁の修復をしてしてしまいます。

 

 

それによって態勢を立て直した張特は、諸葛恪を破っています。

「緩兵の計」で合肥新城を諸葛恪から守り抜いた張特(ちょうとく)

 

降伏するから百日待ってくれという張特の言葉からも分かるように、

魏には百日守り抜けば降伏しても問題ないルールが存在していたということです。

 

このルールを張特が適当に作ったルールであったのなら話は違ってきますが、

「きちんと魏の法律で決められていた」という前提で話は進めていきます。

 

 

これがいつから始まったのかは不明ですが、

少なくとも張特が仕えた曹叡の時代にはあったのだと思います。

百日(100日)ルールが作られた意味

 

この時代、魏呉蜀に分かれて争っていた時代です。

こちらの準備が整わないうちに敵が攻めてくるというのは日常茶飯事でした。

 

魏は、そういう時の為に百日ルールを作っていたような気がします。

 

最初から劣勢で勝てるはずもない戦いだからとすぐに敵に降伏したことで、

残された妻子や一族が皆殺しにあうことなんて普通にありました。

 

また魏からしてみれば、

どんな劣勢でもすぐに降伏してしまわれては非常に困るわけです。

 

これを未然に防ぐ為に、

百日という期限を設けたんじゃないかと思いますね。

 

また百日という一つの期限を設ける事で、

その間に援軍など含め、敵を打ち破るための対策が打てるわけですからね。

 

 

このルールは、守兵にとってもまた都合がよかったわけです。

 

何故かというと百日経っての降伏ならば、

残された妻子が罪に問われるということがないのですから。

 

そして守兵の士気を維持する意味もあったのだと思います。

どのような苦しい状況であったとしても、

百日以内には援軍がかけつけてくれると取る事もできるからです。

 

援軍を送る側・守る側の双方にとって、百日というのは絶妙な期間だったと思います。

游楚の30日ルール

 

これは百日ではないですが、隴西太守であった游楚が

諸葛亮率いる蜀軍を撃退した時にもこの応用が使われた気がします。

 

諸葛亮が北伐を開始し、天水・南安・安定の三郡が、

戦わずして諸葛亮に降伏してしまいます。

 

これにより隴西を治めていた游楚は、本国との通路を遮断され、

完全に孤立してしまいました。

 

 

そんな最悪の状況であった游楚は、

隴西の官吏・民衆らに30日の期限を設けることで士気を高め、

「もし30日経っても援軍がきてくれないようなら自分の首を取って蜀に降伏すればいい」

 

と100日はどのみち持ちこたえられないと判断した上で、

30日という期限を游楚なりに頑張れる最大上限の期間と判断したんじゃないかと思います。

 

これにより実際、隴西の官吏・民衆の士気が非常に高くなり、

戦わずして降伏するという者がいなくなり、気持ちを一つにしたそうですから。

 

結果的に約10日後に援軍が到着しており、

游楚は隴西郡を守り抜く事に成功しています。

諸葛亮の第一次北伐が水泡に帰した最大の原因を作った隴西太守、游楚(ゆうそ)

百日(100日)ルールがもたらしてくれる逃げ道

 

不利な状況で防御一辺倒、

普通なら士気が時間が経てば経つほど落ちていくのが普通です。

 

 

そこに百日という上限を設ける事で、

守兵の士気をなんとか維持して戦う事を可能とし、

 

そして最悪の場合でも上限が決められていたことで、

最終的には降伏ができるという逃げ道を作ってくれてたようなルールだった気がします。

 

 

游楚の時もそうです。30日という期限を設けた上で、

最悪は自分の首を手土産に諸葛亮率いる蜀に降伏すればいいという逃げ道を作ってあげました。

 

期限を設けるというのは、中央軍守兵の双方にとって、

本当に合理的なルールだったなと思うんですよね。