三国時代に陳羣の提案によって施行されたのが、

「九品中正法(九品官人法)」です。

 

 

この九品中正法はこれまでの「郷挙里選」に代わって生まれたもので、

 

魏の曹丕の時代に施行され、改善が行われつつも、

隋の時代に科挙が行われるまで使われ続けていくこととなります。

 

ここでは「九品中正法」はどういったものかを見ていきたいと思います。

そもそも「郷挙里選」とは?

「郷挙里選」は、

前漢時代の最盛期でもあった武帝の時代に採用された制度になります。

 

紀元前二世紀後半頃に始まった制度という事ですね。

 

 

「郷挙里選」が開始されるまでは、

もともと高官と関わりがある者達が優先的に登用されていましたが、

 

国家運営をしていく上で、

優秀な人材の確保が必要になってきたために始められます。

 

 

郷挙里選は「郷より挙げ、里から選ぶ」といった意味の通り、

地方から優秀な人物を中央に推薦してもらうといったシステムでになります。

 

 

 

郷挙里選に使われている「郷」「里」ですが、

州・郡・県などはよく聞いたことがあるとは思います。

 

しかし県の更に下にあるのが「郷」であり、

その「郷」より更に小さい区分が「里」になるわけです。

 

 

また地方から郷挙里選の制度によって推薦される者達の基準は、

賢良・孝廉・方正・直言・秀才・極諫・有道などの視点からでした。

 

ただこの中で特に重要視されたのが「孝廉」であり、

簡単に言ってしまうと親孝行ができる者達が「孝」、清廉潔白な者達が「廉」ということになります。

 

 

ただ「孝廉」に推薦されることは非常に狭き門でもあった為に、

 

だからこそ必死に親孝行してる素振りを見せたり、

名声を獲得する為にいかなる事をやったりする者も増えていったのが実情です。

 

 

しかしこの郷挙里選は、地方で力を持った豪族が多額の賄賂を贈ることで、

地方の豪族者が推薦されるだけのものとなっていったのです。

 

別の言い方をすれば、

地方で力を持った豪族を中央に派遣するだけのシステムですね。

 

そういった中で新たに生まれたのが「九品中正法」だったわけです。

九品中正法とは?

「九品中正法」は尚書であった陳羣が提案したもので、

曹丕が跡を継いで施行されたものになります。

 

 

九品中正法が郷挙里選と大きく違うのは、

 

郷挙里選が地方から推薦されていたのに対して、

九品中正法は中央から「中正官」と呼ばれる者を任命したことです。

 

 

この中正官が官僚希望者を郷里の名声に応じて、

二品官~九品官の間でランク付けの評価をまず行うというものでした。

 

ちなみに一品官はランク付けされることはないので、

二品官からという形で記載しています。

 

よく一品官~九品官という書き方をしている人達も多いですが、

郷里で一品官に任命されるなんてことは普通はありえないですからね。

 

 

中正官によって郷里で評価された者達は、

中央で四品官落とされた状態で初任官することとなります。

 

分かりやすい例を出すと、

二品官ならば六品官、五品官ならば九品官となるわけです。

 

 

そして残りの生涯をかけて、

郷里で評価された九品まで出世するといった流れになる感じですね。

「九品中正制度(九品官人法)」の産みの親、陳羣(ちんぐん)

九品中正法のデメリット

九品中正法は、中正官によって評価されたランクが、

その人物の生涯を左右することになる点から一つ浮かび上がる懸念があります。

 

 

中正官によって高い評価を受ければ、

将来が約束されているようなものですから・・・

 

逆に低い評価を受けた場合は、

どんなに頑張っても品官がそれ以上あがることはないわけです。

 

これは中正官の力が非常に高くなってしまう事ですね。

 

またこの九品中正法は、

既に高い名声を確保している「名士」に有利な制度でもあったわけですね。

 

 

ただそうはいっても、

能力を持つ者もきちんと評価を受けたのが九品中正法でもありました。

 

これは曹操が出した「求賢令」の流れを汲んでいるところはありますね。

 

ちなみに「求賢令」とは、

どんな悪人でも才能がある者ならば用いるといった曹操らしい法令であったわけです。

「名士」に有利な九品中正法を採用した裏事情

では何故「名士」に有利な九品中正法を採用したかと言うと、

曹丕が跡を継ぐ際に多くの手助けをしてもらった名士の存在があったからです。

 

 

少し前に名士弾圧を招いた魏諷の乱というものがありましたが、

名士は曹操にとっては邪魔な存在ではあったものの、

 

曹丕にとっては自分を助けてくれた人達が名士であったのも事実でした。

 

 

しかしこの九品中正法の誕生が、

 

最終的に魏を滅ぼしていく一つの材料になっていこうとは、

この時の曹丕は夢にも思わなかったでしょうね。

「魏諷の乱」は、本当に漢室復興の為の反乱だったのか!?

九品中正法による豪族の貴族化

郷里の官僚希望者をランク付けできることで大きく生まれる問題もありました。

 

それは上でも少し述べましたが、

中正官の権力が非常に高くなってしまったことです。

 

 

これが露骨に現れていくのが、

司馬懿が強い権力を手に入れた時からでした。

 

 

司馬懿は中正官の上に「州大中正」を新たに置いたことで、

賄賂やコネなどによって出世しようとする者達が郷挙里選の時のように現れます。

 

これにより優秀な者が的確に評価されることはなくなっていったのです。

 

 

 

力を持った者が簡単に二品官などに任命されていくこととなるのです。

 

これが子孫に引き継がれていく世襲制のような感じになってしまい、

豪族が貴族化していくこととなります。

 

 

魏晋に仕えた劉毅は、

「上品に寒門無く、下品に勢族無し」という言葉を残しており、

 

「高品官には身分の低い者はおらず、逆に下品官には身分の高い者はいない」

とそのままの意味になりますね。

 

 

最終的にこの九品中正法は、

隋で科挙が実施されるまで使われ続けていくこととなったのでした。